2015/05/27(水)
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高砂の畑で聞いた話
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高砂駅から南西に住宅地を歩いていると、 もともと田んぼだったところでイチゴ、ナス、 花ショウブを植えているおじいさんがいました。
おじいさんは、現在87歳。 本家は大百姓でしたが、親父が四男坊で、 また早世したため、長く工場に勤めました。 戦時中は広畑の日本製鉄に、戦後は加古川の日本毛織で 勤め上げ、リタイア後は、昼間に鉄工所で働き、 夜は高校の宿直をしてと、働きづめの人生だったそうです。
そして、いろんなものに凝りました。 カメラはライカやコンタックスに夢中になり、 ラジオや、真空管式のテレビ、選挙用の拡声器、 オートバイを自分で作り、売っていたそうです。
オートバイは当時、ドイツから入ってきていた。 日本のバイク屋も真似して同じように作っていたが、 ベアリングやピストンなどの材料が国産では品質が悪く、 長持ちしなかった。
当時、日本にオートバイ会社は30〜35はあった。 明石の川西製作所ではドイツのバイクを真似て 「ポインター」という名前で売り出していた。 それでみんなバイクのことをポインターと呼んでいた。
川西製作所、川崎製鉄所では、戦時中に戦闘機を 作っていた。工場は爆撃で壊れたが、技術者は残った。 彼らの生活のために、何かした作らないといけなかった。 それでオートバイを分解して真似して作っていた。
昔は明石と姫路の間の工場は、高砂だけだった。 三菱製紙、鐘淵紡績、日本砂鉄・・・ 昔はプラスチックなどはなく、セルロイドしかなかった。 それを作っていたのがダイセルで、網干に工場があった。 鐘淵紡績があったことで、鹿児島や広島から女工さんが 3000人ほど高砂に来ていた。また日本毛織の印南工場、 加古川工場には女工さんが5000人ずついた。
女工さんたちはその後、家庭を持って、 高砂に多く住んでおられるそうです。
子どもたちの世代になると、進学率が上がり、 大学に行って帰ってこなくなり、 高砂には年寄りの家庭が増えたそうです。 おじいさんの息子さんも、岡山で医者をしているそうです。
そんなお話を、畑のそばで聞きました。
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