過去の日記 29

2006/08/05(土)
cafe MULOT








3日(木)昼のコモンカフェは
cafe MULOT(ミュロ)の進藤利依さん。

神戸で栄養士の免許を取るために短大に通い
「お菓子づくりが趣味」と履歴書に書いたことで
アルバイトで入ったカフェでスウィーツ開発を任され
その後神戸のパティスリーで約3年間
お菓子づくりと料理を学んでおられました。

その後拠点を京都に移して
ライブやイベントでのケータリングを行っていた頃に
コモンカフェでのイベントに入ったのがきっかけで
時々お店に入るようになりました。

「早く資金を集めて、いい物件を探して
 カフェ&料理教室を始めたい」

というのが彼女の夢です。

8月は10(木)、17(木)の昼に入り
10月からは、毎週木曜昼に入る予定です。
また、7(月)夜には「common style」で
僕と一緒に入っていただきます。

※この日のメニュー

・肉味噌と香味野菜の混ぜごはん
・ヤム・ウン・セン(小エビと春雨と香味野菜のサラダ)
・蒸し鶏の生春巻


2006/08/03(木)
個人と組織の公共文化事業
2日の夜は摂津富田・カフェコモンズにて
「社会学*カフェ→それから」vol.3。
http://blog.livedoor.jp/yayakoshiken/archives/50984055.html

カフェコモンズは、NPO法人日本スローワーク協会に
よって運営されているコミュニティカフェです。
店長の宮地さん、マネージャーの福井さんには
たびたびコモンカフェにお越しいただいていましたが
今回はじめてお邪魔することができました。


トークセッションの内容は、またややこし研のページで
ご紹介いただくことになるかと思いますが、質問を受けて
「ああ、やっぱり伝わりにくいな」と実感しました。

僕は、「文化」というものを
いわゆる「芸術文化」よりもかなり広く捉えています。

演劇や音楽、アート、映像だけでなく
料理を作ったり、雑貨を作ったり、サロン空間を作ったり
ということも表現であり、文化であると考えています。

そして温泉めぐりをすることや
割烹料理を楽しむという営みの中にも
文化と呼ぶべきクオリアがあると思っています。

そこに豊かな世界が広がっていて、刺激を受け
それがあることで生活が豊かになるものを
「文化」だと発見していくにつれて
それは「芸術文化」の専売特許ではないし
経済的に自立し得ないという前提を設けることにも
違和感を感じるようになってきています。


セッションの後、Talkin'Aboutで「社会学レストラン」を
主宰していた久保明教さんと話しました。

「文化」とは、文化人類学的には
生活に基づいた習慣、振舞いのことを指すそうです。

それがある形を持ち、純化され、体系化されていく中で
その民族固有の文化として定着する一方で、いくらかは
「芸術」や「経済」として生活から遊離していく。

日本には「暮らし」にルーツを持つ「生活文化」「芸術文化」と
生活から切り離されて輸入された「西欧の芸術文化」が
並存している社会です。


「芸術文化は大事で守っていくべき」
「企業や行政が支えてくれないなら自立する方法を」

という平行線な議論を超克するためには

「生活と文化と芸術をどう地続きのサイクルとして意識するか」

という視点がいるのだな、と腑に落ちました。


2006/08/03(木)
Pammock cafeの卒業








1日はコモンカフェに入りました。
知った方にいろいろお越しいただき
楽しい時間を過ごしました。

写真は7月末でカフェの木曜営業を卒業した
Pammock cafeの松本露乃さん(前の人)と
林美留土さん(後ろで漫画を読んでいる人)。

松本さんは、カフェで知り合った方の紹介で
和田山という兵庫県の過疎の山村にある
自給自足生活をしている農場に
農業体験に出かけることになりました。
http://www.slowbusiness.org/calendar_event.php?eid=20060414093538498

お二人は、昨年7月から1年間、コモンカフェに入りました。
そのことで、自分がお店をしていくということが
自分の中で、一気に具体化したそうです。

そして農村生活を具体的にイメージするために
今度は農場に飛び込んでいきます。

とりあえずは秋に2ヶ月滞在し
稲刈りや豆・そばの収穫、あけび・栗拾い、山芋掘り
などを体験してくるそうですが
そこで冬を越してみたい、とも。

その先に彼らがどんな活動を始めるのか、楽しみです。


コモンカフェの木曜昼は
8月3日から17日まではcafe MULOTの進藤さん
8月24日から9月末まではYomoMacha Gardenの平田さんが入り、
10月からは毎週cafe MULOTの進藤さんが入る予定です。

お店の様子は、またここでご報告いたします。


2006/08/01(火)
31日/小掃除
31日夜のコモンカフェは営業を休み
普段は行き届かない部分の掃除をしました。

時間は午後7時から9時までの2時間。
集まってくれた人たちが、それぞれ気になる部分を
責任を持ってあたっていただきました。

その後は飲みながら
ミーティングのような感じになりました。

お店のことを手伝ってもらうのはどうも気が引けるので
こうした小掃除は、暇を見て、自分でやっていました。

が、「common cafe=みんなで共有するカフェ」としては
共同作業やミーティングなど、みんなが顔を合わせる
時間があった方がいいんだろうな、と改めて思いました。


2006/07/31(月)
30日/六甲山カフェ&OpenMic










30日。
昼過ぎに自転車で芦屋ロックガーデン・大谷茶屋まで。
六甲山カフェに顔を出しました。

暑い日でしたが、登山者は多かったようです。
高座の滝前はあまり陽が当たらず涼しいので
こんな感じで人が集まっていました。

コーヒーをいただいた後に茶屋に入り
熱燗を呑みながら山男の方々と喋ってきました。

夕方にコモンカフェへ。
夜営業はWhyNot!?主催の『OpenMic』。

今日は40名以上の方が集まり、うち半分は外国人でした。

ギターの弾き語りのほか、ラップの人たちも参加しましたが
巷のオープンマイクには不釣合いのレベルの高さでした。
そして会場は不思議にピースな雰囲気に包まれていました。


2006/07/30(日)
芸術芸能見本市の意義と可能性
28日(金)、29日(土)と、大阪21世紀協会主催の
舞台芸術・芸能見本市2006大阪(pamo)に張り付いていました。
http://www.osaka21.or.jp/culture/pamo2006/index.html

今年で7回目を迎えるこの見本市。
1回目にはOMSプロデュース公演を売り込むために
3回目にはシンポジウムのパネリストとして参加しましたが
今年は主催者側のスタッフとして動きつつ、全体をいろいろ見ていました。

お祭りとしての見本市の現場は
なかなか楽しくていいものですね。
仕事といいつつかなり遊んでいました。

見えてきたこととしては、

■エンタテイナーとしての芸人の芸の深さ
■芸術と芸能での支持層の違いと 
 表現者側の、芸の部分での触発の可能性
■コンテンツ発掘よりも指定管理者制度に集中する
 行政の文化担当者の関心
■情報交換の場としての見本市の意義と
 商談の場としてのみ位置づけることの難しさ

あたりでしょうか。


個人的なアイデアですが、公演やワークショップだけを紹介するのではなく、劇団や音楽団体、ダンスカンパニーなどが売りたいもの全てを売ることができる見本市、というものを考えています。

過去の公演パンフレットやビデオ・DVD、グッズ類が販売できたり、衣装や小道具、楽器などのオークションがあったり、役者やダンサーがテレビや映画やイベントの仕事を受けることもできる、そんな見本市です。

いずれ実現すればいいな、と。


2006/07/24(月)
「社会学*カフェ→それから」vol.3
さて、今日はイベントの告知ですが、その前に。

明日夜の「common style」は、
天神祭のお仕事にかり出されるために
閉店とさせていただきます。ご承知ください。
午後8時までは鈴鹿さんにお願いしています。
もしかしたら夜10時頃から開けるかもしれません。

さて、告知です。

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「社会学*カフェ→それから」vol.3

スピーカー:
 渡邊 太(社会学者・「大淀南借家太陽2」店主)
 山納 洋(大阪21世紀協会・SINGLES PROJECT)
 中脇健児(伊丹市文化振興財団 いたみホール事業担当)

お題:個人と組織の公共文化事業

日時:
 8月2日(水)19:00〜
 ※終了後、参加者で懇親会を予定(石窯焼きのピザなどオススメです)

参加料:
 各自飲食代のみ(ワンドリンク制)

会場:
 カフェ・コモンズ
 〒569-0814 高槻市富田町1-13-1 WESTビル5F
 TEL(072-694-3607)
 http://cafe-commons.com/

お問い合わせ:watanabi@taiyoh.org

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ひさびさの「社会学*カフェ→それから」でございます。
会場は摂津富田の「カフェ・コモンズ」です。

この会では、社会学的な考察は渡邊先生にお任せできるので
安心して現場ではどういうことが起こるのかを喋りまくろうと思います。

※今回は会場の都合がありますので、来られるという方は
 事前にご連絡をいただければ幸いです。


2006/07/23(日)
昭和の町










20日(木)は日帰りで大分・豊後高田へ。
昭和の町」を観てきました。

古くからの商店街の活性化のために
お店の看板や外観を昭和30年代の雰囲気に戻し
そのお店に代々伝わる珍しい道具等を展示し
お店自慢の商品をつくってアピールするという
市・商工会議所・商店主が一体となって行っている
商店街活性化の取り組みです。

詳しくはこちらを。
http://www.mint-j.com/kouri/bungotakada/bt.html

豊後高田は、昭和の中頃までは関西方面への
積出港として国東半島全域を商圏としており
とても栄えていたそうです。
つまり、この町は、経済的には関西圏だったのです。

物流が海運から鉄道、自動車にシフトするにつれ
近くに鉄道が通らなかったこの町は、徐々に
その役割を失っていきました。

しかしながら、昭和30年代頃までに
商店主が資本を蓄積し、地主化したことで
町全体が「売らなくてもいいお店」となっていました。

そのために、多くのお店が
店舗に新たな資本投下を行ってこなかったことで
逆に多くのお金をかけずに、昭和30年代の雰囲気に
戻すことができた、ということのようです。

昭和の町には、現在年間に20万人以上の
観光客が訪れるようになっています。

観光地としての資本投下が進んでいないことで
観光客が落とすお金がまだ少ないという状況の反面
観光地化することで、域外資本が入ってきて
地域の内発的な発展を妨げられることを
免れているという、微妙なバランスにこの地はあります。

そんな感じで、最近地方に目がいっています。


2006/07/19(水)
曲がり角
なかなか微妙な情勢でございます。
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20060716p201.htm


2006/07/17(月)
扇風機の顔









今日家の床に寝そべっていて
壁掛け扇風機にも顔があることに
気が付きました。

目が飛び出していて
かたつむりっぽいですね。


2006/07/15(土)
Perfect Rainbow








今日は夕方から、摩耶山での
リュックサックマーケットに参加しました。

ここでのリュックサックマーケットは5回目。
出店者も増えてきて、また出店者間の
ネットワークも生まれてきています。

物々交換もOK、というルールもあるためか
いろいろなやり取りが起こっています。
僕も短時間ながら、雑貨の在庫がいくらかはけて
面白い出会いがいくつか生まれました。

僕が上がってすぐに雷がゴロゴロと鳴り始め
軽く夕立がありました。
その後には、地平線から地平線まで続く
きれいな虹がかかりました。

出店者や参加者が、同じ場所にいて
こうしたトラブルと幸運とを共有すると
不思議な高揚感が生まれます。

掬星台では、虹を前にして大写真大会。
ラブ&ピースな空気に包まれた瞬間でした。

そしてその後はサッカー大会
サッカーの後にはビール&夜景鑑賞会。
ロープウェイの終電近くで、山を下りました。

リュックサックマーケットは、シンプルながら
人のための形をしたイベントなんだろうなと思いました。


2006/07/11(火)
北久宝寺の火災
本日未明に船場・北久宝寺で起きた火災
幸い北側の「東横イン」への延焼を免れましたが
南側にあった「Contents Label CAFE」に
大きな被害をもたらしてしまいました。
http://www.artniks.jp/cafe/

今朝現場を見に行きました。
木造の躯体が焼けてしまっているので
復旧には時間がかかりそうです・・・

1996年にオープンしたこのお店は
展覧会やライブなどのイベントを積極的に展開し
その後南船場や堀江に数多く生まれていった
イベントカフェの草分け的な存在です。
僕自身も、大きく影響を受けたお店です。

「Contents Label CAFE」は
大阪になくてはならないカフェです。
一日も早く、いい形で営業を再開されるよう
多くの方のお力添えをお願いいたします。


2006/07/10(月)
成功の逸話を発掘する









ご報告が遅くなりましたが、6/29の読売新聞に「アートストリーム」の記事を載せていただきました。
http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_06062917.cfm

大阪21世紀協会の「アートストリーム」、FM802の「digmeout project」、そして西天満の雑貨店「カナリヤ」の取り組みを通じて、アーティストが大阪にいながら商業的成功を収め、活動を続けていくという道筋について書かれています。

記事にもあるように、「八二一(はにはじめ)」氏が、出展を通じて出版社と出会い、本の出版につながったとか、「西村軍団」がアワードの受賞などをきっかけに企業広告などの仕事を受けるようになった、といったことがアートストリームでは起こっていました。


14日(金)まで、堺筋本町にあるりそな銀行大阪本店で、
「RESONART」ZAnPon展覧会が開催されています(写真)。


展覧会にあわせて、digmeoutの谷口さんからメルマガが届きました。
その一部を引用いたします。


「RESONART」第11弾アーティスト「ZAnPon(ザンポン)」は、まさに、その「RESONART」の 活動の中から「dig out(発掘)」されたアーティストのひとり。

最初の出逢いは、2004年に扇町のmebicで行われた「digmeout」の講演会。
イベント終了後に作品持ち込みしてきたアーティストのなかに「ZAnPon」がいたのです。
ファイルを一目見て「こいつやばいな」と思ったのが第一印象。「とにかく、おまえdigmeoutで面倒みるから」って即決。そこには、りそなの藤原さんもいて「うわ、すごい発掘現場に立ちあってしまった」って言ってたのも思い出します。
そういえばそこで「尾崎カズミ」にも初めて会ったし、「吉尾一」も作品を持ってきていたし、もの凄い収穫の一日だったなあ、今思えば。打ち上げの沖縄料理店で、りそな藤原さん、mebic山納さんと、なんだか熱く盛り上がっていたことも思い出したぞ。


そう、熱く盛り上がって、軽く終電を逃してしまった日でした。

大阪では、こういったことがいろいろと起こっています。
が、話があまり表に出てこないために「大阪にいてもダメだ、東京に行かないと」というムードがすぐ起こってしまいます。

僕らの身の回りで実は起こっている、アーティストやクリエイターの「成功の逸話」を発掘し、紹介することは、イベントをすることと同じ位大事なことだな、と。


2006/07/01(土)
静かな劇的風景をゆく
1994年8月19日の朝日新聞夕刊に扇田昭彦氏は「小劇場に『静かな劇』の波」という記事を載せています。

日常にある風景を切り取り、普段の会話を再現したような会話劇。
舞台上で大きな事件は起こらず、会話を通じて登場人物が置かれている社会的背景が浮かび上がっていく。

岩松了氏、宮沢章夫氏、平田オリザ氏らの作品にみられるこうした特徴を、扇田氏「静かな劇」と名付けたのでした。


「静かな劇」では、舞台は美術館・合宿所のロビー、サナトリウムの面会室、通夜を迎えた家のお茶の間など、複数の立場の人たちが出入りし、自然に言葉を交わす場(『セミパブリックな空間』)に設定されています。

これは、そうした空間では、登場人物が置かれている状況を自らの言葉で説明するということが日常的に起こり得るということを意味しています。


この視点を裏返してみると、現実社会において、複数の立場の人たちが出入りし、自然に言葉を交わす場に足を運び、そこで交わされている会話に耳を傾けていると、そこにいる人たちが抱えている社会的背景を、「静かな劇」を観るように読み解いていくことができる、ということになります。


演劇を観るように、まちを観る。
そしてその裏側にある社会的背景や
作り手の作為を読み解いていく。

さいきんそんなモチベーションで、まちに出ます。
そして昨日は休みを取って、東大阪を歩いてきました。


地下鉄中央線の高井田駅を降り、中央大通りの南側エリアに入っていくと、金属・機械関係を中心とした中小製造業の町工場が集積したエリアに入ります。

工場にはそれぞれ、板金・鍍金(メッキ)・塗装・鍛造・鋳造・伸線加工・圧延・研磨・熔接・焼付塗装・樹脂加工・鋲螺(ねじ)・発条(ばね)・ベアリングなどの名前が書かれています。大型機械、大規模な生産ラインを導入した工場もあれば、労働集約型の小さな町工場も多く混在しています。

昼の12時になると、職工の人たちは近所にある喫茶店や食堂に足を運びます。季節柄、定食は冷やし素麺と鰻丼や、冷麺とおにぎりといった、清涼感があり、かつご飯のボリュームが多いメニューになっていました。職工さんたちは概して寡黙で、食事が終わればアイスコーヒーなどを注文し、漫画やスポーツ新聞を読んでいます。空調設備のない工場での労働においては、休憩時間の食事は涼みを取る時間でもあるようです。多くの喫茶店では11枚綴りのコーヒー券を置いていますが、その名前には「○○社長」という表記が半分近くあります。ただ昼休みの時間には社長は少なく、職工さんが目立ちます。

寡黙な男性の方々に混じって、軽作業に従事している中高年の女性の方々もおられ、世間話に花を咲かせておられます。明日は孫の参観日だとか、最近起こった事件についてだとか。主には汗を流しての重労働が中心のエリアなのを反映してか「私達も玉の汗、流してみたいわ」といった言葉も。

昼1時を過ぎるとお客さんは少なくなります。変則的な休憩時間を取る職工さんと社長さんが現れるようです。壁一面が漫画、というまんが喫茶のようなお店もあり、職工さんにとっての昼の情報メディアが漫画とスポーツ新聞とテレビであるということが分かります。

工場の中に入ることはできないので、外から覗いてどんなアウトプットを出しているのかを見ていきます。鋳造など熱の出る工程の職工さんはタンクトップ、または上半身裸で、休憩時間を多く取りながら作業をしています。
特殊な加工技術を発揮してさまざまなアウトプットを出すことができる工場ではなく、決められた規格の商品を毎日毎日同じように作り続ける工場の場合には、作業に従事するモチベーションを維持するのは大変そうです。

喫茶店の中には、社長さんが御用達にしているお店もあるようです。自分の工場からはちょっと離れていて、そこでは社長さん同士が情報交換をしていたり、来客との打ち合わせ場所として使っていたりします。熔接から自社技術を活かしてロボットを作り始めている社長の話、東大阪クリエイション・コアでの異業種交流の意義についての話、「社長同士の集まりに遊びに行って何の値打ちがありますねん」と従業員に言われるといった話などが聞こえてきたりします。

国内製造業が空洞化し、独自技術や自社製品をもって対抗していかないと厳しくなっていく状況の中、日々同じ仕事をしていてどうしても視野が狭くなっている従業員を鼓舞して新たな道を切り開いていかなければならない中小製造業の社長が置かれている状況の難しさが、窺い知れます。


東大阪市から大阪市東成区に入ったところにある深江橋に。深江南公園の東側に、「saku+saku」というカフェを見つけました。
もともと福島区のカフェで働いていたのっちさんが、5年前から経営しているお店です。

http://6821.teacup.com/39393939/shop

のっちさんは、昨年9月に生まれた赤ちゃんを背負いながらカフェを回しておられます。
お店には近所に住んでいる主婦やお年寄り、町工場の社長さんなど、さまざまな立場の方が足を運んでいます。
商売を追求するよりも、サロンとしていろんな人にくつろいでもらうお店にしたい、とのオーナーの思いの通り、地域の人たちに支えられるお店になっていました。

深江橋あたりになると、町工場だけでなく住宅も多くなってきます。
最近は工場や長屋がなくなり、その跡に建売住宅やマンションが建つことが多くなっているようです。
高齢化してきた従来からの住民と、マンションに住む新住民とが混じり、新たなコミュニティの醸成が必要となっているエリアでもあります。


そこから今里商店街を経て鶴橋まで。
今里商店街には、多くの商店が昔ながらの形で残されていますが、貸店舗・売店舗も目立っています。貸店舗前の軒先営業というケースも見られますが、若い人たちのお店への代替わりはスムーズではないようです。

そんな感じで、6時間をかけていろいろと観てきました。
こういう動き方が、最近気に入っています。


2006/06/25(日)
自分のための編集
夕方に北堀江のシャムアへ。
ポエトリーイベントで来られていた
美術作家の永井宏さんに会いに行きました。

たまたまシャムアに来た
チャンキーさんといぬんこさんと4人で
お茶を飲みながら話していました。

そのときに、僕は自分と向かい合うことを
ここのところ全然していなかったなと
突然に気付きました。

世の中にあること、起こっていることを
編集する作業は日々行っているのですが
自分が何を思い、どう表現するのかという作業を
忘れてしまっていたのだなと。

永井さんからは、今度50人ほどに声をかけて
詩集を出すので、山納さんもぜひ書いてくださいとの
ありがたいお話をいただきました。


その後ポエトリーイベントを途中まで観ていて
帰りに永井さんの「モンフィーユ」を読みながら帰宅。

読んでいて、心がザワザワしてきました。


2006/06/21(水)
cafe パラボラ/nice time cafe








nice time cafeでコモンカフェに入っていた
矢倉大介さんが、中崎町のカフェ「パラボラ」の
店長として、先週からお店に立っておられます。

nice time cafeではこれまで
南船場の雑貨店「タピエスタイル」の
人たちと一緒にカフェ営業をしたり、ジャズライブを
開いたりしておられました。

そしてnice time cafeは、今後も時々コモンカフェで
開かれることになりそうです。


2006/06/21(水)
Grand Jazz Live









昨日夜のGrand Jazz Live風景です。
(vo.猿丸詩摩子 g.村山義光 b時安吉宏 d佐藤英宣)

プロとして活躍しているジャズミュージシャンが
本人たちがやりたいようにセッションするのが
Grand Jazz Liveの面白いところです。
とても緊張感あるセッションでした。


2006/06/20(火)
おじゃるず
仕事で東京のヘブンアーティストを調べていたら
こんな人たちを発見!
http://ojarus.com/

東京都美術館でやっているようです。
観に行こうかな。


2006/06/18(日)
大阪というまちの存立基盤(6)
総合商社ほどに業容を拡大することのなかった専門商社や卸問屋は、バブル崩壊以降苦境に立たされています。

現金を持っていれば仕入れができる「現金問屋」という業態をもって、大手が相手にしない信用担保力のない小売店との取引を拡大していった大阪の問屋の中には、商売が厳しくなっていく中で実質的に小売業化していくところが出てきました。

また何代にもわたって続けてきた家業を廃業したり縮小したりして、不動産業にシフトしていくようになりました。

もともと卸問屋として、資本力を背景に商取引でのプロデュース能力を発揮してきた人たちの多くが、最後に地主となって生き残るという戦略を取っているのが今の時代なのです。


こうした歴史的背景を持っている大阪において
輸入代替にまつわる重要なエピソードを
どうやって再び経験することができるのか?
そしてそれを「創造都市」とどう結びつけるのか?


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さすがにこれは
10分で話せる内容ではありませんでした・・・


2006/06/18(日)
大阪というまちの存立基盤(5)
製造業の空洞化による失業者を吸収したのは、建設業でした。

大阪では1960年代から、大阪万博にむけての都市基盤整備(地下鉄・高速道路など)が進み、また、万博、ニュータウン建設などの工事が大々的に展開されましたが、そのために単身日雇労働者による労働市場の形成が政策的になされています。

70年代後半から、関西国際空港を筆頭に大型開発プロジェクトが続いていきます。90年代に入ってからもりんくうタウン、明石海峡大橋などの大型公共事業が行われたことで、活況を呈していた建設業は、製造業からの失業者の受け皿としての役割を果たしました。

それが橋本首相の緊縮財政政策による公共事業縮小の影響により、98年頃から件数・事業費ともに減少していきました。建設業での雇用吸収能力がなくなったことで、大阪にもホームレスが目立つようになり、現在では6千人のホームレスが路上生活を行っているそうです。

新たな雇用の受け皿として実質的に機能しているのは介護・福祉分野ですが、そこには雇用のミスマッチも発生しているようです。


2006/06/18(日)
大阪というまちの存立基盤(4)
産業革命以降、大阪は製紙業・紡績業を軸に「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほどに繁栄してきました。
関東大震災により、東京の都市機能が壊滅的打撃を受け、大阪への産業依存が高まったこともあり、「大大阪時代」と呼ばれる時代を謳歌することになります。

戦後には、重工業を中心とした復興政策が取られ、鉄鋼・石油化学・合繊・プラスチックなど装置型産業を中心として強固な産業軸を形成していきます。
ただ、大阪には素材型産業を中心とした産業が集積したものの、安価で大規模な工場用地が少なかったため、家電を除いて付加価値の高い加工組立型産業の集積が進みませんでした。逆に60年代以降には、工場等制限法により、市内の工場は八尾・東大阪に移転していくことになります。

関西の主力産業である家電は、商社の力を借りて海外進出を図るも、ノウハウが社内に蓄積していくことで独自に海外展開を行うようになりました。
そして85年のプラザ合意以降には、徐々に生産拠点を安価な労働力市場のあるアジアに移していき、その結果国内製造業の空洞化を引き起こしていきました。


2006/06/18(日)
大阪というまちの存立基盤(3)
戦後には、輸入技術に基づく活発な設備投資の拡大により、繊維などの軽工業品にかわって鉄鋼・機械・化学品が輸出産業として成長していきましたが、繊維系商社はこの流れに乗る形で企業合併などにより業容を拡大し、総合商社としての地位を確立していきました。

脱繊維の流れで衰退しつつあった軽工業は、労賃の安い東欧、中南米、東南アジアなど生産拠点が開発途上国に移っていきましたが、その流れを受けて商社は工場設備一式を輸出し、現地での施設建設工事までを請け負うターン・キー方式によるプラント輸出に乗り出すなど、繊維系産業等の海外技術移転の橋渡し役としても活躍しました。

「ラーメンからミサイルまで」と呼ばれるように、商社の取り扱い品目も多様化していきました。
今では、商社は本来の商取引、物流、金融事業から、情報技術、情報調査、事業経営、オーガナイザー、市場開拓へとその業態を大きく広げてきています。

大阪が持っていたプロデュース機能は、大阪という枠をこえて、日本という枠をこえて、ビジネスを展開し続けています。

そしてこのことは一方で、大阪という都市の「輸入代替」を支えてきた機能が、大阪という都市の経済的発展とは歯車が合わなくなってきたことを意味しています。


2006/06/18(日)
大阪というまちの存立基盤(2)
大阪というまちの機能は、古代には首都、中世には水陸の交通の要衝、戦国時代には寺内町、1583年秀吉の大坂城築城で軍事都市と様々に変化してきましたが、1615年の元和偃武(=大坂城落城)以降、軍事都市から経済都市としての道を歩むことになり、やがて天下の台所と呼ばれる大経済都市となりました。

大阪湾に面した港には諸国の船が出入りし、淀川は京の都へ、大和川は大和の地へ、市内には縦横に水路が通い、この交通の便が繁栄をもたらしました。

諸国の蔵米や国産物を販売する町人の蔵元や掛屋、そして金融機関とも云うべき両替商が徐々に力をつけ、大名貸しを行っていた天王寺屋や鴻池、住友などの豪商は巨万の富を築いていきました。

領主を持たない都市・大坂。
1759年には大坂人口の98%が商人だったそうです。
士農工商という封建的身分制度の下位に置かれた大坂商人は、商取引について国内で圧倒的な優位を築いていきました。

明治維新以降、富国強兵・殖産興業の流れの中、豪商は官業払下げを受けてさまざまな事業を営むようになり、財閥企業へと脱皮していきました。

また1880年代に政府の指導と外国技術の導入により、綿紡績、製紙業の機会生産に成功して産業革命が実現しましたが、江戸時代の中末期頃の繊維問屋をルーツにした繊維系商社は、原料である綿花の輸入とともに、綿糸・綿布の輸出に力を入れた。関西五綿と呼ばれる伊藤忠商事・丸紅・トーメン(現・豊田通商)・ニチメン(現・双日)・江商(現・兼松)は、その後総合商社として大きく業態を拡大していくことになります。


2006/06/17(土)
大阪というまちの存立基盤(1)
今日は大阪市大創造都市研究科のシンポジウムでした。

今回は事前にかなり勉強をしていて
喋りたいことが一杯あったのですが
会場に着いてから時間が10分しかないと聞かされ
無理矢理喋ったので、ちょっと消化不良気味でした。

ということで、ここに書きます。
長いので、興味ある方はお暇なときにお読みください。

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創造都市論に影響を与えたとされるアメリカの都市経済学者ジェイン・ジェイコブズは、その著書『Cities and the Wealth of Nations,1984 』(邦題「都市の経済学」)において、都市の成長と経済的多様化の要因として「輸入代替」を挙げています。

「輸入代替」とは、かつては輸入していた財を、自力でつくる財で代替することをいいます。

 輸入代替を得意とするようになった地域は、都市になる。
 そして、爆発的な輸入代替のエピソードをくり返し
 経験する都市では、その経済は時代に即応したものに
 なり、イノベーションに基づく輸出の仕事を間断なく
 続けることができる。
 (ジェイン・ジェイコブズ著『都市の経済学』より)

ジェイコブズ氏の論が面白いのは、都市の発展についての楽観論だけでなく、都市の衰退についての鋭い視点を持っているところにあります。

 都市地域の中核をなす都市が停滞し衰退する場合、
 その原因は、もはやそこでは輸入代替にまつわるあの
 重要なエピソードが経験されなくなったということで
 ある。停滞した都市経済は、しだいに先細りになり、
 時代に取り残される。そこでは、旧来の輸出の損失を
 あらたな輸出の仕事で補うことができず、したがって
 その都市地域、他の諸都市、都市のない諸地域に対する
 市場としてはしだいに貧弱になる。
 (中略)都市の仕事を求めてその地域を離れる若者は、
 地域内の都市を素通りして、仕事さえあれば遠方の
 都市に行こうとする。
 (ジェイン・ジェイコブズ著『都市の経済学』より)

都市再生の鍵を握っているこの「輸入代替」の機能を
これまで実質的に担ってきたのは、商社でした。


2006/06/17(土)
行政機構のフィールドワーク
大阪21世紀協会という組織は
大阪市・大阪府・関経連・大阪商工会議所により
構成されているので、ここに身を置いていると
行政、財界関係の方々の話を聞く機会に恵まれます。

もともと社会学科出身の僕にとっては
これはとてもいいフィールドワークの場になっています。
最近は行政の方の現場情報を聞くのが
ささやかな楽しみになっています。

この地域にはどういう人たちが住んでいるのか
この地域を維持している産業基盤はどこにあるのか
この地域はどういった公共的課題を抱えているのか
合意形成のためにどういう取り組みがなされて
その結果、どううまく行っているのか
その結果、どんな弊害が生まれているのか
といった、普通は聞けない話を聞くことができます。

行政の現場には、特に大きなジレンマがあります。
しかもそれは公にすることができないものだったりします。

「だいたい役所は・・・」といった、公共性を自ら
引き受ける覚悟のない批判に晒される人たちが
そこで何を知り、何を感じているのかについて
とても興味があるのです。


今日、大阪市大主催のシンポジウムに出ます。
http://www.gscc.osaka-cu.ac.jp/events/2006/symp_060617.html

大阪というまちの存立基盤について
都市再生について、創造都市としての可能性について
夢物語を排して、できるだけ現場に近いところから
話をしたいと思っています。


2006/06/11(日)
Le flacon









コモンカフェの入り口から10mほどのところに
「Le flacon(ル・フラコン)」という名前の
小さな雑貨店&カフェができました。

オーナーは松本由美さん。
7席のカフェでは、コーヒー・紅茶のほか
VILLA D'EST」のミントティも楽しめます。
雑貨のほうは、生活雑貨中心になっています。

外の風景を見ながらお茶を飲みたい時には
訪れてみてください。


2006/06/03(土)
東淡路ワークショップ(3)








淡路駅では、阪急京都線と千里線が
X字に平面交差しているため、線路が2本あり
東西の移動がとても不便になっています。
そのため、高架工事が予定されています。

またJRの城東貨物線を複線にして
外環状線を作り、JR淡路駅を設置する予定があります。

そのため大阪市による区画整理事業が進んでおり
駅前商店街を抜けたあたりは空き地が目立ちます。
住宅だけでなく、東淡路商店街のお店も
近いうちに立ち退くことになっているようです。
http://green.sakura.ne.jp/~hashimoru/keihankan/town-awaji.htm

隣が抜けて自立しなくなった住宅は
つっかい棒で支えられています(写真左)。

このあたりは一階建ての低層住宅が立ち並び
下町の趣を残しています。

住宅街を抜けていく道は
ゆるやかな曲がり道になっていて
両側には緑地帯が続いています(写真右)。

車が通ることのない家の前の路地には
子供たちがチョークで描いた絵が続いていて
この路地が単なる通路以上の、生活やコミュニティを
支える役割を果たしていることが窺えます。


コミュニティとしての路地をたたえた住宅街
コミュニティの結節点としての駅前商店街が
なくなってしまった時、この地域はどう変わっていくのか。

J.ジェイコブズが45年前に「アメリカ大都市の死と生」で
指摘していた問題群が、東淡路というエリアには
集中しています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4306051188/qid%3D1149340906/249-0156951-7421908

なくなってしまう前に、一度ぜひ歩いてみてください。


2006/06/03(土)
東淡路ワークショップ(2)








商店街から東にちょっと外れた住宅街の中に
「ブドウ屋」という骨董屋があります。
看板には「土日曜日営業」「ご予約により営業」とあります。

店主の竹澤さんは、前回のクレオ大阪北での
カフェ・雑貨店開業スクールに参加されていたそうです。
15年間続けてきた骨董屋は今年一杯で閉めて
来年からは女性のお客さんが集まる飲み屋でも始めようかと。

 骨董屋という商売は
 自分と価値観が合う上得意のお客さんが
 3人いれば成立する商売なのだそうです。

 お金を持っていて、金利で生活しているような人は
 いいと思えばお金に糸目をつけずに買ってくれたのですが
 低金利時代になり、生活に余裕がなくなってきたことで
 6年ほど前から業界の景気は冷え込んでいるようです。
 またすでに骨董好きのお客さんが骨董品を一杯もっていて
 もう満腹状態になってきたということもあるようで。

 お店にいるだけではなかなか商売として難しくなり
 店舗を持ちながら全国の骨董市をまわって
 出店していくというのが、今の骨董屋さんの
 一般的な動き方のようです。
 ちょうど明日東寺での骨董市に出るそうで
 商品の多くはすでにお店にはありませんでした。

 また今では商品をネットオークションで販売して
 売上を稼いでいく、というパターンが
 主流になりつつあるうようで。


商店街の奥、駅から東にまっすぐ出た所に
「ダイヤモンド」という喫茶店があります。
昭和24年頃から淡路で営業しているそうです。

お店の中は2階建てになっていて
「高校生は二階に上がるべからず」の張り紙があります。
大伸ばしにしたハワイの写真が昔から掛かっていて
昔からこのお店に愛着を持っている地元の方々で
今でも大いに流行っています。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/kuan/fav26.html

ここでコーヒーを頼むと、ゆで玉子がついてきます。


2006/06/03(土)
東淡路ワークショップ(1)









今日はお昼に、東淀川区淡路にあるクレオ大阪北まで。
カフェ・雑貨店開業スクールに呼ばれました。
http://www.creo-osaka.or.jp/event/event/02.asp?id=592

コモンカフェの開業の話をとのことでしたが
僕の話は一般論にはならないので
後半にはカフェや雑貨店が今いかに厳しいかと
商売としてのお店の方法論と
売らなくてもいいお店のつくりかたについて
1時間でしゃべってきました。

仕事は午後2時には終わりましたが
阪急淡路駅という、こんなことでもなければ
行くことのなかった場所に来たのだから
ただ帰る手はないと思い、この町を把握するために
2時間半ほどウロウロしました。

写真左は淡路駅東出口前にある新聞屋さん。
手荷物も預かってもらえるようです。

写真右は制服屋さん。
このお店がなぜ経済的にもっているのかが
よくわかります。

駅の東側には、東淡路商店街があります。
市場と商店街が混在していますが
布団屋さんや婦人衣料品店などが
まだ商売として成り立っている
生きた商店街です。


2006/05/25(木)
できる・できないのひみつ
学研まんがのひみつシリーズの中に、内山安二氏著の
「できる・できないのひみつ」という巻がありました。

このまんがには、少年やっ太と
外人デキッコナイスという登場人物が出てきます。

百階建てのビルはできるか?
台風を吹っ飛ばすことはできるか?
地球の裏側まで穴を掘れば、荷物を送れるか?

そんなテーマについて
なんでもやってみないと気がすまない
少年やっ太が「よーし、やったる」と取り組み
外人デキッコナイスが「そんなのできっこないす」と
否定することから殴り合いの喧嘩になり
ブタのブウドンが「ヤメレ、食っちまうぞ!」と二人を止めて
最後にけつろんおしょうが出てきて
できる、できないを教えてくれる
というのが、この本の基本ストーリーでした。
http://kamakura.cool.ne.jp/adhoccom/Himitsu/review/rev019.html


今、僕のまわりには
少数のやっ太と多数のデキッコナイスがいます。

この環境に身を置くまでは、物事を否定する
デキッコナイスが厄介な存在だと思っていたのですが
実は裏付けのない自信に基づいて突っ走るやっ太こそが
大いに問題を引き起こす存在なのだと気付いてきました。

現場レベルで見えてくる現実に対して
躊躇し、立ちすくむ人は本質的です。
そのジレンマを引き受けつつ先に進もうとする人とは
何かが一緒にできそうに思うのですが
そうした現実をみないで突き進もうとする人の
楽観的な青写真には付き合いきれないなと
最近は思うようになりました。

そんな感じで、最近はちょっと愚痴っぽいのです。


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