過去の日記 20

2005/04/30(土)
in cafe
昨日29日は「common style cafe」。
朝9時にコモンカフェに入り
夜11時までの14時間、お店にいました。

これだけお店にいると、お店の裏の片付けが進んだり
改善点がいろいろと見えてきたりします。

今回はMULOTの進藤利依さんに
フード・スウィーツをお願いしました。

14時間も一緒にいると
かなり充実した意見交換・情報交換ができます。

メーリングリストや、お客さんとして行った時では
なかなか伝えられない、コモンカフェの運営についての
こまごまとしたことが伝えられます。

そして僕自身が、普段は飲食店で働いているマスターから
お店の運営についていろんなことを教えてもらえます。
このスタイルは、今後も続けていきたいと思います。


僕がカフェに昼から入るのは月1回程度ですが
夜のバー営業としては、毎週月曜日(第四月曜日を除く)に
お店に入ることにしました。

お店について自分が学んでいることを
お店に立つことで確認していきたいと思います。

次回は5月2日(月)の夜に入っています。
よろしければ、お越しください。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166604686/qid%3D1134284192/503-3996889-2791104


2005/04/26(火)
ニアミス
朝9時7分にJR芦屋駅から快速列車に乗って
シートにもたれかかりながら
今気に入っている本を読みふける。

列車は9時18分頃に尼崎駅を出発し
9時25分頃に大阪駅へ。
預かっているカフェの売上を銀行に預けて
少し遅くなったので走って
9時43分頃に扇町の仕事場に駆け込む。


まったくいつも通りの行動パターンでしたが
近くでは大きな事故が起きていたようで。

早起きの知り合いが少なかったことが幸いしてか
亡くなられた方に知り合いはありませんでした。
怪我をされた方のリストの中に、昔親しくしていた人と
漢字まで一緒の同姓同名の方がおられましたが
きっと人違いでしょう・・・


今回の事故で亡くなられた方の
ご冥福をお祈りいたします。


2005/04/24(日)
ハッセルハウス










阪急仁川駅から歩2分ほどのところに
「ハッセルハウス」という喫茶店があります。
http://r5656m-web.hp.infoseek.co.jp/

日・月・金の週3日
12時〜18時のみの営業ですが
もう27年間やっておられるそうです。

大正時代の洋館のような雰囲気で
2Fには油絵や山の写真が飾られています。
窓からは六甲の山並を望むことができます。
まさに「六甲山カフェ」。

ここはしばしば訪れてみようかと。


2005/04/24(日)
ウイルスバスター禍
に巻き込まれました。
2日ぶりに復旧しました。

まだ復旧方法を知らないという方へ

FAX付き電話機で03-5972-5746(ウイルスバスターFAX情報サービス)
に電話し、9111#と押せば復旧方法がFAXで送られてきます。

手順は簡単にいうと

1. セーフモードで再起動する
2.「OfficeScan NT」内のファイル
  「LPT$VPN・594」を削除する
3. 通常モードで再起動し、ウイルスバスターを更新する

というものです。

ただ復旧できていない人は
この画面が見られないのでしょうが・・・


2005/04/20(水)
一見さんを断る哲学
京都の洛中では、はじめて行ったお店で
「えらいすんまへんなあ、予約が入ってますのや」
「また、おこしやす」とお断りされることがあるそうです。

なぜ一見(いちげん)さんを断るのか?
いろいろ調べてみると、そこからは老舗が代々
のれんを守り続けるために培ってきた哲学が見えてきます。

呉服屋に行くと、反物も飾っていないのに
「なんにしましょ?」と言われるそうです。
こういう会話の中で、お店の人は
お客さんとの間合いをはかっています。

お客さんの力量をきちんと把握することで
よりこまやかな接客をして、お客さんに満足していただく。
そのための方法論だそうです。

お店の人が商品の知識をしっかり持って、質の高いものを提供し
格式高くのれんを大事にして、商売を広げすぎない。
それが京都のお店がこれまで守ってきた方法のようです。

「お客と顧客はちがう」「顧みてくれるお客さんが顧客」
それは、お客さんに媚びへつらうことなく
お店がお客さんと対等な立場を保つことで
永く続いていく関係を築くための知恵。

ただ、こうした京のおもてなしは
京都のお金持ちのお客さんが少なくなり
地方からの観光客がたくさん来るようになった現在
その形を少し変えつつあるようです。

先斗町のあるバーでは
一見客は水割り1杯何千円で出す一方で
常連客には500円そこそこで出している
という話を聞きます。

顧客へのおもてなしを大切にしつつ
一見のお客さんとどう向かい合うのか?
その試行錯誤がそこにはあるようです。


なぜ、いま、こんな話を拾っているのか?

それは、お店を開業しようとしている若い人たちにとって
お店を10年、20年、50年と続けていくためのヒントが
相変わらずここにあるような気がしているからです。


2005/04/18(月)
扇町クリエイティブ・クラスター







大阪市北区の地図を
南東を上にして見てみると
実はパリ市街の地図に似ています。

大川の流れをセーヌ川になぞらえてみると
中之島はシテ島に、中之島公会堂はノートルダム寺院に
造幣局はエッフェル塔あたりにあります。
メビック扇町はモンパルナス駅あたりです。

地図の向きを変えるだけで
場所のイメージはずいぶん変わるものです。


大川が大きく曲がる場所の内側のエリアには
デザイン、映像、広告・企画、IT、WEB、編集・出版など
クリエイティブと呼ばれる職種の個人事務所や小企業が
たくさん集まっています。

多くはテレビ局・出版社・広告代理店・印刷会社などの
下請けという位置付けで、さまざまなクリエイティブを
生み出す仕事をしておられます。

このエリアが持っているポテンシャルを見いだし、
編集し、顔の見えるネットワークを広げていくこと
そして新しい動きがここから起こってくるような
シカケを考えていくこと。

メビック扇町の今後の取り組みとして
このあたりを重視していきたいと考えています。


※扇町クリエイティブ・カレッジ!(OCC!)は
 この春はお休みいたします。
 7月以降に夏講座を開講する予定ですので
 しばしお待ちください。


2005/04/17(日)
アゲハ蝶








これはミイロタイマイという
インドネシアのアゲハチョウ。
ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」の
ジャケットにもなっています。

真ん中の紫色の部分が
当たる光によって3つの色にかわるので
ミイロタイマイというそうです。

 うちの標本は裏からも見られるように作っています。
 防腐剤もナフタリンではなく
 漢方のようなものを使っていて目立たなくしてあります。
 5年10年たっても大丈夫です。
 箱も手作りで、バーなどにも置いていただけるように
 いい感じに仕上げています。

神戸北野異人館にある
「六甲昆虫館」のご主人の言です。
http://www.portnet.ne.jp/~trip/

このお店をはじめて5年になるご主人は
好きなことでメシを食っているタイプの人です。
商品に対するこだわりと薀蓄があります。

20分ほどお店にいましたが
次から次にお客さんが入ってきて
商品もよく売れていました。


さて、ご連絡。

明日の夜、僕はコモンカフェに入っています。
今後、基本的には月曜の夜にお店に入り
基本的にはカウンターまわりだけを使って
バー営業をしようと思っています。

さいきんいろいろな個人商店をまわり
その哲学について研究していますが
学んだことを活かして
お店に入ってみたくなったのです。

お暇でしたらお越しください。


2005/04/17(日)
はじめにきよし








OMS時代にずいぶんお世話になった
「はじめにきよし」のライブが
コモンカフェの1周年のタイミングで実現しました。

その後すっかり活動の幅を広げておられるお二人の
小空間でのセッション。

曲が終わるごとに起こる拍手の長さが
その完成度の高さを表していたように思います。


2005/04/17(日)
ピースマザー







中崎町のカフェ・ピースマザーで
夕方にバランスセットをいただきました。
五穀米を使った、健康にやさしいごはんです。

現在は、岡崎さんと松原さんのご夫婦で
カフェを切り盛りしておられます。

今年の1月にお子さんがお生まれに。
以前はギャラリーだった2Fで
ゆりかごに揺られていました。


2005/04/16(土)
おとなのおんがくしつ







シングルズから少し北
堂山町にあるバーbinocheでは
毎週金曜の夜10時から
シングルマンがDJをやっています。

キムさんやCommon Barになる前の
シングルズのお客さんが集まっていました。


2005/04/15(金)
コーヒーカンタータ







のカウンターの上に猫がいました。


2005/04/15(金)
消火栓使用法







近畿経済産業局3F廊下にて発見。
当然持って帰れないので
写真にて。


2005/04/13(水)
4月12日(火)
さて、久しぶりに普通の日記を書いてみようかと。

昼12時半に朝日放送へ。
旧知のアナウンサーの方と一緒に昼食。
石焼きひつまぶしをいただきました。
その方が本を出版したい、とのことだったので
出版社とのつなぎをお手伝いすることに。

読み手への訴求のポイントがいくつもある本なので
出版すればそこそこ売れていくと思います。

大阪発の出版物を増やしていくこと
それもまた、今の仕事のミッションの範疇です。

昼3時からはメビック扇町で
「扇町クリエイティブクラスターMAP」の打ち合わせ。
扇町・南森町・天満あたりに集積している
クリエイティブ職種の方々を紹介するマップを
紙とWEBで作って、界隈の企業のブランディングと
受注拡大をめざす、というものです。

夕方5時に「あるっく」「天満人」編集長の
井上彰さんと打ち合わせ。
「天満人」の編集についてと
扇町クリエイティブカレッジ!のご相談など。

夕方6時にcommon cafeへ。
たまたまお越しいただいていた
パークエディティングの藤本さんと
「すいとう帖」についての情報交換など。
夕食をいただきながら、cafe milletの鈴鹿さんと
京都のお商売の話など。

その後午後10時まで、事務所でメール返信&資料作成。
仕事後には閉まっているcommon cafeに行き、
ビールを飲みながら階段の掃除や本棚の片付けをして
裏の「巣バコ」でバランタインをロックで飲んで
終電で帰ってきました。

リアルタイムで書けない話が多くなったので
日記は書きづらいのですが
さいきんは日々こんな感じです。


2005/04/10(日)
看板を出さなくなるお店
西成区のある商店街の路地奥に
のれんを出さず、看板にも灯りをつけない
焼肉屋があります。

カウンターだけで7席ほどのこのお店では
一頭の牛から少ししか取れない上質の肉を
厳選して出しています。

一見客にはたどり着けなさそうなお店ですが
いつも常連客が一杯で、日に3回転しており
半年先まで予約が入っています。

この店のご主人は口が悪く
肉の焼き方、食べ方が間違っていると怒られます。
はじめて来たお客が偉そうな態度を取っていると
二度と来るな、と。

常連客たちは、自分でビールを開けたり
ご飯をよそったり、カウンターを片付けて帰ったりします。

お客さんは、食べさせてもらっている
お店の人は、出させてもらっている
そういう意識を持つべきだというのがご主人の言です。

僕が行った日には、肉が新しくてごめん
それだけは謝る、と。


次は大阪郊外のマンションの一室に事務所を構える
あるプロダクトデザイナーのお話。

大手メーカーのインハウスデザイナーを経て独立し
プロダクトデザインを作り上げるための
100ほどのプロセスを体系的に整理しておられます。
メーカーに対する問題解決能力のとても高い方です。

この方は営業をしていませんが
下請けを脱却したい、新しいブランドを作りたい
と考えるメーカーの人たちが全国からやって来ます。
そのなかで付き合えるところと付き合えばいい
というスタンスを守っておられます。

自分が何をやりたいのか
企業をどうしたいのかをきちんと語り
デザイナーと一緒に何かを作り上げたいという
意思を持っている経営者と
対等の関係で何年間かつきあう。
そういう仕事のやり方です。


お店を大きくしたり、いくつも持ったりするのではなく
提供する商品のクオリティや
お客さんとの対等の関係を保つという選択。

看板を出さなくなるお店。
この哲学について、いま研究しています。


2005/04/08(金)
「ビジネス未来人」
というNHK教育テレビの番組が今日から始まります。
http://www.nhk.or.jp/miraijin/

新時代をひらく“人”に迫る経済情報番組だそうです。

今回は、メビック扇町とcommon cafeの取り組みについて
ご紹介いただいております。

プロダクトデザイナーの田中おと吉さん
エルマガジン副編集長の竹内厚さん  
パークエディティングの藤本智士さん
アウトドア情報センターの下城民夫さん

common cafeマスターの鈴鹿樹里さん
【cafe LOOP】さん(戸田さん・松井さん)
ヌーヴェル・サロンの児玉桜さんと
喫茶芝居「贅沢な日常カタログ(※) 」の
風景などが紹介される予定です。

放映時間は午後10時25分〜10時50分。
もし興味がありましたらご覧いただければと。


※「テレビ欄」は誤算でした・・・


2005/04/06(水)
地獄谷
JR神戸駅から西側のガード下には
数人しか入れない小さなスタンドやスナックが
立ち並んでいる場所があります。

終戦後に屋台やバラックが集まり
一時期活気のある通りとして栄えました。
客にお金を余分に請求したり
身ぐるみ剥がしたりしていた事もあり
昔は地獄谷と呼ばれていたそうです。

昔は造船所や港湾労働者
少し前までは建設現場の労働者が来ていましたが
最近はお客さんも少なくなっているそうです。
僕が行ったときには
パチンコ打ちに金を貸している老婦人が
血統書付きの飼い犬を連れてビールを飲んでいました。

今どんなお店が流行っているかというより
これまで何十年も続いてきたお店が
なぜ何十年も続いてきたのか
最近そんなことに関心があります。


2005/04/06(水)
(最終回)小劇場のゆくえ
 80年代後半に起こった「小劇場ブーム」。夢の遊民社、第三舞台といった、学生劇団からスタートした劇団が数万人の観客動員を達成し、小劇場演劇が社会現象にまでなった。企業による協賛が盛んになり、いくつもの演劇フェスティバルが開催された。
 動員を増やすにつれてタイニイ・アリスからスズナリ、紀伊国屋ホールへとキャパシティの大きな劇場に進出していくことが「小劇場すごろく」と呼ばれ、一つのサクセス・ストーリーとなっていた。動員を増やしていけばいつかは演劇で食べていけるかも知れない、多くの演劇人がそう信じていた。 

 その「ブーム」は92年の遊民社解散、第三舞台の1年間活動休止あたりで終息を迎える。それはバブル経済が崩壊し、芸術に対する大盤振舞いが縮小していった時期に重なっている。

 ブームを通して小劇場が学んだこと、それは、観客動員を数万人レベルにまで拡大しても演劇で食べていくのが難しいこと、動員が増えていくにつれて拡大していく予算の舵取りのために失敗ができなくなること、保守的な固定ファンの期待に応えなければならなくなること、それらが創造上の自由度を狭め、表現上の実験を行いにくくすること、であった。
小劇場演劇はその後、表現者のためのものとして取り戻された。それは一方では商業化のプロセスからいったん遠ざかった、ということでもあった。

 現在、小劇場の置かれている状況は厳しい。それは、最近よく言われるような「表現のための場所がなくなる」という問題ではなく(劇場・ホールは実は少なからずある)、小劇場というジャンルが魅力的なサクセス・ストーリーを用意できなくなり、才能が流れて来にくくなっている、という問題なのである。 

 たいていの場合、あるジャンルの活性化は「運動」ではなく「才能によるブレイクスルー」によって起こる(大衆演劇における梅沢富美男、パ・リーグにおけるイチローの存在を思い浮かべてみましょう)。現在の小劇場演劇に必要なのは、テレビや映画の仕事をして成功するのではなく、演劇という実演芸術にこだわりつつ成功を収める、というサクセス・ストーリーをあらためて用意することではないだろうか。(了)

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第24号(2002.11.16発行)>


2005/04/05(火)
小劇場とテレビ、それぞれの弁証法
長らくコピーペーストを続けてきた演劇文は
いよいよ明日で終了いたします。

しばらく日記を書かないでいる間に
自分の中に芽生えてきた関心事があるので
今後はそのことについて書いていこうと思っています。
キーワードは「芝居を観るようにまちを観る」です。

今日の文は番外編。
「THE BAG MAGAZINE」での連載を読んで
当時エルマガジン編集長だった沢田眉香子さんに
お声かけいただいて書いたものです。

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 小劇場出身の劇作家・役者の最近のテレビでの活躍にはめざましいものがある。『古畑任三郎』の三谷幸喜(東京サンシャインボーイズ)、『池袋ウエストゲートパーク』の宮藤官九郎(大人計画)、最近ではNHK朝の連ドラ『まんてん』のマキノノゾミ(劇団M.O.P.)はドラマの脚本で評価を高め、堤真一(tpt)、西村雅彦(東京サンシャインボーイズ)、上川隆也(キャラメルボックス)、生瀬勝久(そとばこまち)らは脇役を固めている。舞台で研鑚を重ねてきた彼らの完成度の高い脚本や演技はテレビというメディアを縁の下で支えている(惜しむらくはテレビの世界に行ったまま帰ってこない才能が多いということである)。

 一方、テレビや映画で売れっ子のタレントが最近舞台に向かっている。それは客寄せや話題作りといった興行側の論理だけでなく、優れた演出家のもとで常に観客に全身を晒しながら一つのドラマをノンストップで演じるという試練をくぐることにより、役者としての新たな側面を開花させるという、役者としての成長をめざした積極的な挑戦でもある。

 劇画タッチのビジュアルと大音響のハードロックで、派手なアクションとギャグをまじえたパワフルな活劇を展開する劇団☆新感線。1980年の旗揚げ以降さまざまな客演を迎えてエンタテインメント路線をひた走ってきた同劇団は、99年の『西遊記』でホリプロと共同制作を行って以降、パルコ(『犬夜叉』00年)・松竹(『阿修羅城の瞳』00年、『アテルイ』02年)・東宝芸能(『野獣郎見参!』01年)・ホリプロ(『大江戸ロケット』01年)などの大手演劇制作会社と組み、主役級にタレントを起用してのプロデュース公演を次々と行ってきた。松竹主催、市川染五郎を迎えて歌舞伎の殿堂である新橋演舞場、松竹座で上演された『阿修羅城の瞳』は新感線ファン・歌舞伎ファンの双方を集め、東京・大阪公演とも大いに好評を博した。

 「劇団は活動母体。だが、劇団員が年齢を重ねたことで上演できなくなった作品もあれば、より広い劇場、幅広いキャストで作品のバージョンアップを、と思うこともある。」(いのうえひでのり)。タレントを主役級に配し、実力派の劇団役者たちは脇に回り、舞台に厚みとグルーブをつくっていく。体力とテンポの良さを要求される稽古を通して自らの役者としての可能性を開いていくタレントと、タレントを迎えることによりイメージを具現化させ、作品をパワーアップさせる演出家。そこで確かに起こっているコラボレーションについて、僕らはもっと注目してよい(個人的には次回公演『七芒星』に元光GENJIの佐藤アツヒロと奥菜恵を迎えつつも劇団の本公演として行うあたりに注目している)。

 テレビの仕事をして上がり、ではなく、演劇という実演芸術にこだわりつつ成功を収める、という一つのサクセス・ストーリーを劇団☆新感線は示している。その到達点の先に、ロングランシステムの実現などにより、東京に拠点を移さずとも関西からヒットを生み出していく劇団を支える環境を整えること、それこそがハードの消失により厳しい状況を向かえている関西の小劇場演劇界に必要なプロセスではないだろうか(ちなみにテレビでおなじみの渡辺いっけい、筧利夫、羽野晶紀らは劇団☆新感線の出身であり、現在の看板役者の古田新太、高田聖子、橋本じゅんらはテレビでも活躍している)。

<掲載:ミーツ・リージョナル 2003.2月号)>


2005/04/04(月)
「演劇で食えるか」について私が知っている二、三の事柄(2)
 1999年8月、三倉茉奈・佳奈姉妹の主演ダブルキャスト・全国5都市公演を予定していたミュージカル「ミレット」は、製作会社の突然の倒産により、初日目前にして上演中止となった。直後に「なんとか上演したい」と演出の勝田安彦氏を代表とし、上演をめざすミレット実行委員会を設立。スタッフ・キャスト全員の手弁当による、国内初のバッカーズ・オーディション(公演の出資者を募るための試演会)を行った。しかしながら出資を十分に募ることができず、実行委員会は2000年12月に解散。同公演はその後木山事務所がプロデュース、2001年8月に全国11の公立ホールで上演された。
 
 欧米には、演劇公演を行う際に個人投資家や投資組合(エンジェル)に出資を募る制度が確立している(バッカーズ・システムまたはバッカス・システム)。作品が当たればロングラン上演される、という前提のもと、多くの資産家がスポンサーとして公演の企画段階から関与し、見込みのある作品を採用し、資金を投じる。公演がロングランとなれば、舞台セットや衣装、音響・照明プランにかかる初期費用を回収した後に余剰利益が出るため、出資者の旨味も大きくなる(ついでだがアメリカには、ブロードウェイミュージカルのような大規模なものだけでなく、オフブロードウェイの実験的な作品に対してもメセナ的出資が集まる、という、日本からみるとはるかに成熟した土壌がある)。

 演劇に対する出資制度を日本で根付かせるためには、ロングランシステムの導入が不可欠であろう。
 日本では劇団四季のみが成功しているこのシステムは、ロングランに対応できる劇場(最低1ヶ月スケジュールを押さえることができ、かつ不評の場合には打ち切りが可能)、訓練され、メソッドを共有化した役者の厚い層、既にある程度の固定層を確保しており、リピーターが見込めること、などの条件がそろってはじめて実現する。四季の場合は、劇場を自前で持っている(または借り上げている)、キャスト・スタッフを自前で抱えているためスケジュール調整が容易、ダブルキャスト・トリプルキャストを導入している、といった部分が強みとなっている。

 そしてまた、当然のことであるが、作品自体が観客が何度も観たいと思うものであること。ここでは観客の周波数にあわせた作品を提供できるプロデューサーの存在が重要になる。「作り手本位」の発想をこえて「観客本位」の発想で作品を提供することがここでは要請される。
 
 「演劇で食えるか?」困難ではあるが、いくつかのシステムを確立することによりそれは可能になるであろう。そのときクリエイティブな作り手は、自身の芸術性・作家性をその中で発揮しつつ、大衆に受け入れられる作品を提供する技術を磨くことになるであろう(『もののけ姫』『千と千尋』で宮崎駿が果たした「経済的成功」と「批評的成功」のことをもう一度考えてみましょう)。

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第23号(2002.9.20発行)>


2005/04/04(月)
「演劇で食えるか」について私が知っている二、三の事柄(1)
 演劇にかかわっている人達はどうやって生計を立てているのだろうか、という疑問にいきなり答えてみる。

 大学で教える、ワークショップによる収入、企業・行政からの協賛金・助成金、TV・映画・商業演劇の仕事をする(メディア関係の仕事は東京に集中しているので東京に出ていく人も多い)、声優・ナレーションなどの声の仕事、音響・照明・舞台・ホール制作の仕事、普通にサラリーマン/OL(仕事上で責任ある立場を任せられると演劇活動に支障も)、公演の合間にアルバイト(コンビニ・量販店・レンタルビデオ・ファーストフード・喫茶店・定食屋・居酒屋・キャラクターショー・トラック運転手・肉体労働・スナックなど…公演になると長期で休まなければならないのでその都度バイト先を変える人も多い)。

 一般的に小劇場演劇では、公演でギャラが出ることはまれで、逆に普段は劇団費を払わなければならない、ということも多く、芝居だけで生計を立てていくのはとても難しい。

 実演芸術というものは、お客さんに一回見てもらうためには一回実演しなければならない。そしてお客さんに特定の日時に集まってもらわなければならない。このことはシンプルながら重要である。
 
 ビデオ・CDといった複製物は一度パッケージを製作してしまえばいくらでも複製可能であり、また好きなときに再生できる。映画や音楽のように複製物がある程度のクオリティを維持できる表現形態は、それを流通させることにより経済的に自立することが可能となる(ミニシアターはビデオ化権、TV放映権を販売するというスキームを確立したおかげで、それまで日本で公開できなかった海外の実験的映像を劇場公開できるようになった)。

 演劇の複製物がそれ自体鑑賞に耐えうるまでにクオリティを上げることができればこうした可能性も開けてくるかも知れない。ただしそれに成功した場合、実演は複製物を販売するためのプロモーションという位置付けになる、ということを心配する必要があるが…(グレイトフル・デッドのようにコンサートは録音自由、海賊版は大量に流通、それでもコンサートには数十万人の観客が集まる、というスタイルは貴重である)

 では、副業にも複製物にも頼らず舞台のみで食っていく道というものはないものだろうか。
 例えばロングラン公演、例えば公演製作にかかる費用をまかなうための出資システムの確立、例えば作品を効率よく作るための仕組み(制作ノウハウの共有化など)…
 実はこうした試行錯誤はこれまで幾度も行われてきている。

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第22号(2002.7.20発行)>


2005/04/03(日)
「公共財」としての劇場
 扇町ミュージアムスクエア(OMS)が今年の12月で閉館することに決まった。閉館の理由は施設の老朽化。建物は閉館後解体され再開発が行われるが、新しい建物には劇場などの文化施設が入る予定はない。

 今回の件については当事者として思うところも多い。すでにいろいろな立場の方々にご意見を頂いており、あらためて反響の大きさに驚き、またそれだけ思いを持った多くの方々に支えられてきたことに大変感謝している。そして、それとともに、劇場のもつ「公共性」についてもう一度よく考えておく必要がある、と感じている。


 およそ世の中において営まれている活動のほとんどは、多かれ少なかれ社会性・公共性を帯びている。企業活動についても然り。
 社会的に必要である商品・サービスを供給すること、経済的自立を果たして商品・サービスを供給し続けることによってその社会的役割を果たすことこそが企業の使命である、ともいえる(ここで公益企業が文化事業を続けることと、文化事業を終了して公共料金を切り下げることのどちらにより「公共性」があるのか、と考えてみることは重要である)。

 一方で公共性はあるが市場の原理に任せると十分に供給されない財・サービス、というものが世の中には存在する(「市場の失敗」)。これらを供給するのは行政の役割、とされている。上下水道・消防・道路・公園・保育所・学校・ゴミ処理場・・・最近では多くの劇場が行政の手によって作られるようになっている。

 しかしながら、行政により供給される財・サービスが市民のニーズに合致しない、という事態が往々にして起こる(「政治の失敗」)。必要のない道路や河口堰や使いにくい劇場ができたりする背景にあるのは公権力の奢りであり政官財の馴れ合いの構造である(ムネオハウスはある意味いい教材である)。

 実は「市場」や「政治」の失敗をこえて、自分たちにとって大切であり、公共性のあるものを維持する方法、それは要求したり批判したりすることではなく、企業や行政任せにせず公共財を自分たちで主体的に作って支える、ということなのである。


 残念ながら、OMSは閉館する。しかし「思い出」や「象徴」としてのOMSではなく、「機能」としてのOMSであれば、それが本当に必要であれば市民出資ででも作ることができる(「市民出資」の映画館は全国に5館ある)。

 ただし、その際に不可欠となるのは、「劇場」が演劇関係者や一部の演劇ファンだけでなく、さまざまな立場の人たちに開かれたパブリックな空間であり、みんながその劇場を支える意志を持っている、という前提なのである。

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第21号(2002.5.18発行)>


2005/04/02(土)
観劇人口を増加させるために(3)
 ホンダの創立者である本田宗一郎氏は戦後間ない1946年に本田技研工業を設立した。この会社は名技術者として知られた本田氏がエンジンなどの研究を行うために作ったような会社であった。その“研究所”が「世界のホンダ」になった背後には藤沢恒夫氏という経営のエキスパートの存在があった。彼が生産・販売・宣伝などの業務を一手に引き受けたからこそ本田技研は今のホンダになったと言える。もしホンダが本田宗一郎氏のワンマン経営のままだったら、おそらく“技術道楽”の会社として終わっていたに違いない(阪口大和著『痛快!サバイバル経営学』より…この“技術道楽”の「技術」の部分を「芸術」に置きかえてみるとどうでしょう?)

 「現代経営学の教祖」ピーター・ドラッカーは1954年に著した『現代の経営』の中で「事業の目的として有効な定義はただ1つである。それは顧客を創造することである」と述べている。20世紀中盤以降、近代資本主義社会は「供給過剰の時代」を迎えた。モノを作れば売れる時代は終わったという認識のもと、マーケティングにより「無駄なもの」を買ってくれるお客さんを作り出すことによって経済は支えられるようになった。そこには「作り手本位」の発想から「顧客本位」の発想へのコペルニクス的展開があった。逆にいえば、マーケティングなくしては今の高度消費社会は達成しえなかった、ということでもある。

 90年代の音楽業界がメガヒットを連発させたこと、そしてここにきて映画がメガヒットを生み出すようになってきたことの背景には、「芸術」の分野へのマーケティング手法の全面的導入がある。プロデューサー・システムの確立(小室哲哉、小林武志、つんくの登場)、タイアップ方式(シングルセールズとCM、TVドラマ)の普及、心地よく鑑賞するための環境(シネコン)、さまざまな宣伝媒体を駆使した広告宣伝…「作り手本位」の発想から「顧客本位」の発想へと転換し、「お客さま」の立場に立ってソフトを提供することができた時、鑑賞者は増加し、経済的にも豊かな状態が訪れる…

 ところで、「芸術」とは、買ってもらうために生産される「あってもなくてもいいもの」なのでしょうか?

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第20号(2002.3.16発行)>


2005/04/01(金)
観劇人口を増加させるために(2)
 鑑賞人口の細分化、すべてを見通した批評の不可能性・・・ここで三たび『ポストモダン』という概念を提示してみよう。
 70年代以降、サブカルチャーの進展にともない価値観は急速に相対化され、あるジャンルがヘゲモニーを握ることがない状況が生まれた。そうした状況が20年、30年と継続していくうちに、新しいジャンルは生まれ続け、また生まれたジャンルは歴史を蓄積していった。

 小劇場というジャンルが生まれて30年以上が経過した。アングラ・前衛・メタシアター・静かな演劇・・・『小劇場演劇』というジャンルを正しく俯瞰するためには、この30年の歴史を勉強する必要がある。これまで他のジャンルに関心を持っていた人がこのジャンルを理解するためには、新しく外国語を勉強するような努力を必要とするわけである。当然であるが、このプロセスは、人を選ぶ。数ヶ国語を操る能力を持つ人にしか入っていけない森としてマイナージャンルの総体は存在しており、また森は年々深みを増していく。ジャンルが増えすぎること、そして個々のジャンルが厚みをましていくことが、サブカルチャー全体を見通す視座をますます成立しにくいものにしており、結果個々のジャンルは『小宇宙』『タコツボ』と称されるように閉じていく。またそれぞれのジャンルを支える人口もジャンルの増加によって分割されていき、経済的にそのジャンルを支えきれないところまで進む。『ポストモダン』というモデルからみた『小劇場演劇』の未来は、まあ、こんなところでしょうか。

 しかしながら、この図式には違和感を覚える方が少なからずおられるでしょう。それではなぜ宇多田のCDは750万枚も売れたのか?『千と千尋』はなぜ過去最高の興行収入を挙げたのか?・・・実は、現在文化というジャンルで起こっているのは、『メジャーにおける画一化とマイナーにおけるタコツボ化』ともいうべき二極化現象なのである(つづく)。

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第19号(2002.1.19発行)>


2005/03/31(木)
観劇人口を増加させるために(1)
 「スケルトン」というスポーツ競技がある。ボブスレーやリュージュのように氷の上を滑るというもので、頭を前に、うつ伏せになってソリに乗り、氷でできたコースを時速125km位で滑り降りるという、スリルと迫力に富んだものである。次回の冬季五輪の正式競技に認定されているが、日本での認知度はまだまだ低く、競技人口は100名弱、コースも国内では長野県に1ヵ所あるのみである。この競技で日本を代表する選手は、スポンサーを見つけるのに苦労し、一時は失業保険で一家を養っていた。この競技がもっと日本において認知され、定着していくことが選手および関係者の願いである。

 という話をTVで観た。ああ、大変やなあ、と思う一方で、それでも新しいジャンルというものは生まれていくのか、と感心しながら観ていた。

 さて、演劇の話である。

 今、日本ほど多くの演目が上演されている国はないそうである。特に東京や大阪などの大都市にいれば能・狂言・歌舞伎などの日本の古典芸能から、ヨーロッパの古典劇・現代劇、新劇、小劇場、大衆演劇、歌劇・ミュージカル、バレエ、現代舞踊に至るまでの舞台芸術を日常的に鑑賞することが可能である。そしてジャンルによっては鑑賞人口も決して少なくはない(歌舞伎・宝塚歌劇・劇団四季の年間観客動員はそれぞれ約200万人)。

 これは文化的にみて、非常に恵まれている環境ではないだろうか、と思う。一方で、これらの舞台表現すべてを押さえている人っているんだろうか、と思う。話を小劇場に限ってみても、関西で行われている、観ておくべき舞台すべてを観ることが物理的に不可能な場合がままある(維新派とNODA MAPと新感線と桃園会と太陽族と八時半がかぶっている週末、みたいな)。いわんや東京においてをや、ということであるし、物理的に可能でも経済的に不可能、ということもあろう。こうした状況は、直接的には一つ一つの舞台公演の動員を減らしてしまうという結果を生んでいる(それならパイ自体を大きくすれば良い、という発想はどのジャンルでもやっている、ということにそろそろ思い至るべきである)。また大局的にみれば、小劇場演劇に関する世論形成を難しくしている(今、テント公演や市街劇は「伝説」になるのだろうか?)。
 
 むしろ多すぎることによる弊害について、僕らは考える時期に来ているのかも知れない。


<掲載:THE BAG MAGAZINE 第18号(2001.11.17発行)>


2005/03/30(水)
“もっと劇場へ行こう”
 演劇界と呼ばれる世界に身を置いていると、もっと多くの人が演劇を観るようになるためには云々、という物言いをよく耳にする。演劇を作る立場、紹介する立場、劇場を運営する立場などからすれば、これは生活のかかった切実な問題である。確かに僕自身もそんなことを喋っていることがある。が、言っていて何かしらの違和感を覚えるのはなぜだろうか?

 そもそも劇場によく足を運ぶ人とはどういう人達なのだろう?
 演劇そのものが好きな人、特定の劇団・役者が好きな人、何かの形で演劇に関わっている人、劇場空間(テント・野外も含めて)での非日常体験が好きな人、演劇界の事情通になることが好きな人、などなど、おそらくかなりいろいろな種類の人々が存在する。これらの人々をひっくるめて我々は通常“芝居好き”と呼ぶわけだが、もっと多くの人に演劇を、というときに想定されているのはどんな観客なのだろうか?新たな“芝居好き”を作り出すことなのか?それとも年に何回か演劇を観る人を増やしたいのか?

 もっと多くのお客さんが来れば…すでに忘れられているかも知れないが、小劇場演劇は80年代バブルの時代に「小劇場ブーム」を経験している。幾つかの劇団は動員を倍々ゲームで増やし、数万人規模の観客動員を実現している。それではなぜブームは一過性のものとして終わったのか?(もしかしたら終わっていないのか?…今でも数万人規模の観客を動員している劇団はいくつかあるが)

 そして、もっとお客さんが来れば、劇団は経済的自立を果たすことができるのか?作家は、演出家は、役者は、演劇だけで食べていくことができるようになるのだろうか?それともできないのだろうか?

 しばらく演劇論みたいなものを書いてきましたが、次回からしばらく演劇を支える経済・システムについて考えてみようかと思っています。

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第17号(2001.9.22発行)>


2005/03/29(火)
物語不信/物語回帰
 物語が成立しにくい時代である、と言われる。原風景・圧倒的な原体験の喪失、政治の時代の終焉とスーパーフラットな現実の登場…いわゆる『ポストモダン的現実』を前にして、オリジナルの物語は痩せ細っている、と。
 こうした状況を受けて、60年代以降の演劇が「物語を放擲する」「物語を遊ぶ」「物語未満を語る」という方法を取ってきた、ということをこれまで書いてきたが、果たして今、物語は本当に成立しないのであろうか?

 坂手洋二率いる燐光群は、強い物語性と社会批判とを備えた硬派の劇を展開する。東京のゴミ問題(「ブレスレス」)、レズビアン(「カムアウト」)、自衛隊(「反戦自衛官」)、オウム真理教(「甘い生活」)、沖縄(「海の沸点」「沖縄ミルクプラントの最后」)など、扱うテーマは多岐にわたっている。ある社会的マイノリティの現実を、入念な取材によって得られた情報をもとに再構成し、普遍的・歴史的視点から壮大な物語として展開する坂手の戯曲は、イデオロギーに流されることなく問題の本質をあぶりだしていく。

 現実の問題に向かい合うために必要なのは、「イデオロギー」ではなくて「物語」である。そしてそれこそが演劇の作業である。坂手はこの意味で演劇を、そして物語を信じている。一般的には「物語が成立しにくい時代」であっても、物語(中上健次の表現を借りれば『切れば血の出る物語』)を希求する立場というものがある。また歴史的視点から俯瞰すれば、物語の成立する余地は充分に残されている。そして物語を構築するためには、今、自分が持ち合わせていない素材を「取材」することが不可欠である。

 実は、これこそが、今ある大多数の演劇に欠けている視点であり、態度なのではないだろうか。

 あえて言おう。一般的個人の手の届くところにある痩せた、等身大の現実だけからでは物語は生まれない。そして、『語るべき物語などない』と現実に対して開き直り続けることこそが演劇をも痩せ細ったものにしているのではないだろうか…

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第16号(2001.7.20発行)>


2005/03/28(月)
プロデュース公演は可能か?
 プロデュース公演とは、固定的な劇団メンバーではなく公演ごとに演出家や俳優・技術スタッフを集めて行われる公演のことである。劇団の枠を越えた才能の出会い(コラボレーション)により作品の新たな可能性を引き出す、劇団ではできない実験を行う、などの芸術創作上のメリットがそこでは期待される。

 日本においては長らく「劇団」が演劇生産システムの核となってきたが、80年代以降、民間・公立のホールが単なる「貸し小屋」の範囲を越えたプロデュース公演を行うようになってきた。このことは、日本における演劇生産システムが欧米のプロデューサー・システム、または劇場を中心とした演劇生産システムに一歩近づいた、というニュアンスで一般的には捉えられている。

 しかしここで見落としてはならないことがある。それは、日本の現代演劇にはスタンダード、および俳優養成システムが欠如している、ということである。欧米にはスタニスラフスキーシステム、というメソッドがあり、また演劇大学などの養成機関でそのメソッドを修得することができる。つまり「完成した下地」という前提の上にプロデュース公演が成立しているのである。

 日本においては、極端に言えば劇団ごとに方法論が異なる、という状況があるため、1〜2ヶ月の稽古期間ではその擦り合わせが間に合わず、「練習試合のままに終わって」しまう、という状況が往々にして起こる。また、公演実施にあたって観客動員を見込むという観点から、テレビに出ているタレント、またある分野では有名な人をキャスティングする、という方法がよく取られる。これは「演劇」と観客が出会うきっかけともなるのだが、一方である技術水準を満たさない俳優が舞台に立ち、ファン的な観客の欲望を満たしている、という状況は、演劇公演が一過性のイベントとして消費されてしまう危険性を孕んでいる、ともいえる。

 広い意味での演劇生産システムの確立なしには、日本においてプロデュース公演の成立は難しいのではないだろうか。

 扇町ミュージアムスクエア(OMS)では5月31日〜6月10日にかけて、プロデュース公演「その鉄塔に男たちはいるという」を行う。この公演は「第6回OMS戯曲賞」大賞受賞作の再演であるが、今回はあえて初演と同じ演出家・キャストを起用している。これは訓練された俳優のアンサンブルを要求するこの作品にとってそれが最良の選択である、と判断してのことだが、この公演をOMSがあえて「プロデュース公演」と呼ぶことの意味を、ぜひ積極的にとらえていただければ、と思う。

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第15号(2001.5.20発行)>


2005/03/27(日)
さいきんはこんな感じです
ひさびさに近況報告など。

■3/24に扇町クリエイティブカレッジ!冬講座が終了。

■3/25に「De-sign Room」が終了。

 5月中旬くらいまではメビック扇町でのイベント・講座は
 お休みです。

■「中小企業のデザイン活用成功事例調査」という作業に
 関わっていました。
 近畿圏のデザイナー・プロデューサー・企業経営者の方々
 にインタビューしてまとめる、というものです。

 おかげでデザイナーと企業のかかわり方
 (デザインという分野での自分軸と他者軸の調和)
 が自分の中で整理できました。

■common cafeが「THE BIG ISSUE」に取材いただきました。
 1週間のお店のうつりかわりをご紹介いただきます。
 発売は5月1日です。

■4月25日発売の「ちょっと山まで・六甲山」(山と渓谷社)
 の中に1ページほど「六甲山カフェ」について
 文を書かせていただきました。
 ひさびさにちょっといい文章が書けた感じです。

■4月29日にやる、と前に書いていました
 common cafeでの「六甲山カフェイベント」は
 当日参加できない方が多かったため、いったん保留にしました。
 また次の動きが決まりましたらご連絡いたします。

■2週間ほど前に天野天街さんの「真夜中の野次さん喜多さん」 
 を観てから文化回帰モードに入っています。
 昨日は2本お芝居を観ました。

 今の視点でみると、演劇というものは
 1時間半〜2時間という時間と空間のデザインであり
 またその間の観客の経験をデザインする作業なんだなと。


では、また演劇の文にもどります。


2005/03/27(日)
静かな演劇、というもの
 『ポストモダン』と呼ばれる文化状況がある。
 “大きな物語の解体”…70年代以降価値観が急速に相対化され、誰もが信じることができる枠組みがなくなってしまった状況…ごく大まかにいえばこういうことだが、さて、こうした社会状況の変化に演劇はどう対応してきたのか?

 おそらくそこには4つぐらいの方向がある。それは「物語をこわしてしまう」「物語の枠組みの中で戯れる」「物語が成立し得る時間・空間を描く」「物語ではなく関係性を語る」というものである。

 90年代演劇のキーワードとなった感のある『静かな演劇』は、この4つ目に対応している。
 舞台上で事件が起こらない、起承転結のストーリーがない、時間・空間の飛躍がない、日常にある光景を現実にできるだけ近く再現する、人間関係をこまかく描写する…こういった芝居を『静か』と括るのはいささか乱暴だが…場面設定としては美術館・合宿所のロビー、サナトリウムの面会室、通夜を迎えた家のお茶の間など、複数の立場の人たちが出入りし、自然に言葉を交わすであろう場(平田オリザ氏のいう『セミパブリックな空間』)が選ばれることが多い。セリフは「それ」「え?」「だから、それ」のように、僕たちの日常会話そのものを再現する。そこで描かれるのは、「物語」ではなく登場人物間の「関係性」である。

 そんな、日常を切り取ったのような風景が舞台上で展開されるわけだが、ずっとその状況を凝視してみたときに、レビンの壷の絵から人の顔が見えてくるように、“地”の部分から何かしらが見えてくる。それは「家」に縛られた女性の憎悪であり、科学の進歩ほどには進歩しない人間に対する諦念であり、押し寄せてくる戦争に対する不安である。

 細密画を描くように丹念に現実を再現し、こまかく関係性を描いていく作業を通じて「物語」「テーマ」にならない形而上的不安をあぶりだす、端的にいえばこれが「静かな演劇」の方法である。

 この方法は確かに革新的であり、今という時代の「物語未満」を語るに雄弁な方法である、と思う。しかしながら、それは観客の求めるカタルシスを与えてくれる芝居、娯楽としての芝居では多分なく、前衛のように一回性の価値しか持たないものなのではないだろうか。また、『語るべき物語などない』という言説が、語りうる原風景・原体験を持っていないこと、そして物語を紡ぎ出す力もないことのエクスキューズとして使われるとすれば、それは少し困った事態なのではないだろうか、とも思っている。

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第14号(2001.3.17発行)>


2005/03/26(土)
演劇のメタレベル、あるいはメタとしての演劇
 演劇というものはふつう、さまざまな約束ごとにのっとって行われる。物語(ドラマ)がある、セリフがある、戯曲に従って進行する、役者がいる、舞台と客席は分けられている、劇場で行われる…そうした「制度」に従い、普遍的な、または新奇性ある作品を作り出すわけである。

 しかしながら、こうした「制度」そのものを疑う作品、というものが19世紀から20世紀にかけて生まれてくる。チェーホフ、ブレヒトにより用意され、ベケットにより達成された「物語」の解体、アングラにより廃棄された「戯曲中心主義」「劇場空間」、太田省吾の「沈黙劇」…こうした演劇は、演劇というジャンルに対する批評意識によって支えられており、先行する芸術表現に対する否(ノン)としてその意義づけがなされる。

 こうした『演劇』に対する批評としての「演劇」、すなわちメタレベルの演劇を徹底して追求した人物として特筆すべきはやはり寺山修司である。

 寺山は演劇を取り巻くさまざまな「制度」に対する異議申立ての劇を大胆に展開した。観客参加の劇、見えない劇、登場人物をさがす劇、俳優と観客が一対一で出会う市街劇、書簡演劇…演劇としてやるべきことは寺山がやり尽くした、とさえ言われる実験劇は、実験性・芸術性だけでなく芸能性をも兼ね備えた稀有の例外であり、現在に至るまで伝説としての地位を確立している。

 こうした「メタ演劇」はあくまでも一回性のものであり、そのエピゴーネン(=模倣者)の存在意義は必然的に低く見積られる。また作品のメタレベル化が過度に進行した場合、そのジャンルを貧困化させてしまう可能性がある(ベケットの『息』は3分間で終わる、みたいな)。80年代に全盛となった「メタシアター」(こうして見るといかにも薄いネーミングだが)が、演劇という制度の内側に留まりつつ、演劇の上に演劇を重ねて限りなくこれを遊戯化する戦略をとったことはこのことと無関係ではないだろう。

 「批評としての演劇は袋小路に行き着いており、そこから先には針の穴のような小さな可能性しか残されていない」このことは押さえておいていいだろう(別に押さえなくてもいいですが)。

<掲載:THE BAG MAGAZINE 第13号(2001.1.20発行)>


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