過去の日記 1

2003/06/05(木)
心地の良い疲れ
今日はMebic扇町の
オープニングシンポジウム。
120名ほどの方にお越しいただきました。

大阪市大創造都市研究科教授の佐々木さん
JAMBOの星野さん
大阪市大助教授の長尾さん
日本SOHO協会理事の畑さん
ソフト産業プラザイメディオ所長の富永さんに
スピーカーとして登場いただき
Mebic扇町のあり方について
大阪の経済活性化という
大きなミッションと結びつけて
お話しいただきました。

佐々木教授が
せっかく山納さんがいるんだから
地下の食堂跡を劇場にしてしまったらいいのに、と
おっしゃっていただいたことは
とても励みになりました。
(水道局庁舎の地下には職員食堂跡があるのです。
 ちなみに海外のインキュベータには
 劇場を併設したところもあるそうです。)

その後の交流パーティでは
覚えきれないほどの方と
名刺交換。
できるだけ一人一人と長くしゃべるように
心がけて。

シングルズ。
昨日は牧君。
今日はワカさんとリカさん。
フッシュマンズ好きの元常連、牧君は
7月から、中津にできる
カレーうどん屋の店長になるそうで。


2003/06/05(木)
興味のなかったことをとりあえず好きになってみる
ITに強くないのに
ITな施設の仕事をしている私。

OMSから一緒にMebicに行った
松井さんや尾下君に支えられ
またSINGLES PROJECTでは
西原さんをリーダーとする
WEB製作メンバーに支えられ
どうにか過ごしています。

さいきんはやふーじゃぱんの雑誌を
電車での行き帰りに読んで勉強。
いつかはITといえば○○
と呼ばれてみたいなと。


今日(5日)は
Mebic扇町のオープニングイベントです。
夕方5時半からのテレビ大阪のニュースでも
施設のことが紹介される予定です。


2003/06/04(水)
中崎町の昼下がり
今日の昼休みに中崎銀座を通りかかると
オレペコ企画・岸田コーイチさんの家の前に
岸田さんと中沢さんがおられました。

家の斜め前には
岸田さんがシングルズのMLで
しきりに勧めておられたカフェ「パラボラ」。
残念ながら寄れませんでしたが
お店の中沢さんという方とごあいさつ。
とてもいい感じのお店でした。

そのまま数十メートル先のカフェ「カヌトン」へ。
2ヶ月ほど前から雑貨の販売をお願いしています。
フランス雑貨や蚤の市雑貨の売れ行きが好調で
今日も行商人のようにおおきな荷物を持って
新しい商品をおさめてきました。
(くわしくは「プチ貿易」の掲示板に書きます)

月に1,2回、お店の角谷さんと
雑貨の売れ行きの話などしていると
本当にバイヤーになったような気分です。


シングルズ。
昨日は「チームKGB」の
大盛り上がりのお店に寄りましたが
今日は山中君に不義理をしてしまいました。
早く普通にお酒を飲めるようになりたいものです。


2003/06/03(火)
教わること、教えること
今日はお昼に元エルマガジン編集長、
現在フリーライターの沢田眉香子さんに
お越しいただきました。

編集者やライターという仕事は
教えてもらったからなれるものではなく
自分なりの視点やものの考え方を持った人が
一所懸命に頑張って編集者やライターになっていく。

そこで必要なのは
どこかに自分を表現できる場所がある
といった夢を思い描くことではなく
あくまで職人として文章を書き分けたり
読者が求める企画を出して本を売っていく
という覚悟。

そんなお話をいただきました。


夕方に、なんばHatchの西横にあるカフェ”Logic”へ。
actualize works gramの本田隆二さんと会いました。
大阪ミナミを中心にカフェ、レストラン、バーなど
7つの空間をプロデュースし、また空間デザイン・
広告デザイン・都市開発などを手がけている方ですが
昔はは家出少年で、テキ屋的な商売から
身を起こしたそうです。

自分が誰からも商売について教わらなかった分
人に教えて、みんなに成功してほしい

そんな思いの強い方でした。


2003/06/01(日)
日曜日が待ち遠しい
今日は午前中に仕事場に出向き
デジカメで雑貨の撮影。
5月中に立ち上げる予定だった
「オンライングッドデザイン博覧会」のためのものです。

遅れてしまっておりますが
明日以降できるだけ早くアップして
みなさんにご覧いただけるようにしようかと。


夕方には神戸の栄町あたりへ。
雑貨店・古着屋・家具屋・本屋などをまわり
「haus diningroom」でお茶。
窓際の席は1人でぼーっとするのに良さそうな場所でした。


2003/06/01(日)
扇町クリエイティブカレッジ!(OCC!)
さいきんは、Mebic扇町での講座ネタを
いろいろと繰ってます。

クリエイター・プロデューサーの育成
という、施設の趣旨に合う企画として
WEB・デザイン・編集・出版・
映画・雑貨・カフェ・TV製作などの講座を
7月から始める予定です。
(詳細はそのうちに)


OMSでは、これまでにない
文化系カルチャーセンター企画を最後にやろう、と
「扇町カルチャーセンター!」(OCC!)を
立ち上げましたが
今回は、OMS的な企画を復活させようと
「扇町クリエイティブカレッジ!」(OCC!)を
スタートさせます。

サブカルな企画をすぐに通しにくいのが残念ですが
遠からず、そんなこともやっていきたいと企んでます。
どうぞお楽しみに。


2003/05/31(土)
卓球の要領でメールを返信する
今日はデジタルクリエイターズの主催で
505iの携帯で使えるフラッシュアニメーションの
イベントがありました。

イベントの後のパーティを
覗かせていただきましたが
見事に知らない方ばかりでした。
クリエイターもジャンルが違うと
なかなか混じらないものですね。
デジクリの濱村さんに
いろんな方を紹介していただきました。

夜にinfixの新作キッチンの
お披露目パーティを覗いた後
南船場の「FETE」というお店へ。

一人で飲んでましたが
ADHIPの原田さん(有名なブレイクダンサーです)が
会社の人達と現れたので、合流。
その他ウォータープラネットを作っていた
PICTO.INCのヤマモトさん
音響空間デザイナーの辻さんらが来られました。
南船場ネットワーク、すごいですね。

ちなみに原田さんは
びっくりする程早くメールのレスをくれる方です。
(このサイトの管理人の西原さんと同じ位の早さです。)
これは大事なことですよね。
できれば僕も身に付けたい技術です。

マツオさんのシングルズには
行きそびれてしまいました。


2003/05/30(金)
「大阪人」が壁一面に飾ってあるカフェ、というのはどうだろう?
ある企画会議で
机の上に「大阪人」という雑誌の
バックナンバーをいっぱい並べて話し合ってみたら
参加者からいろんないい意見が出て
充実した議論になりました。

ひとが、自分の中からクリエイティブなものを
引き出す環境というものが
あるんでしょうね。


夕方に「のマド」の中井さん、ヤマモトさんが
PAの當麻さんと一緒にMebicへ。
6月7日の打ち合わせをしました。

この日は「扇町クリエイティブ・コンファレンス」
というイベントをやっており
GRAPHの北川さんや
FM802の谷口さん・digmeout caféの古谷さん
Gate of Dragonの三村さん・パークエディティングの藤本さんに
来ていただくのですが
実はイベント後の交流パーティで
のマドさんにシークレットライブをお願いしています。

そしてフードは「コンテンツレーベルカフェ」さんと
東京の「Qoo」というフードユニットの方に
お願いしております。
ビジネスイベントをどこまで
「OMS」なイベントにできるか
そんなこころみです。

※ちなみにイベントの詳細は
 この掲示板の中にあります。

http://www.talkin-about.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=70&forum=4


11時過ぎに古井さん、廣川さんのシングルズへ。
今日も烏龍茶を飲んでました。


2003/05/29(木)
ミナを着て旅にでよう
この間の日曜日に
シングルズマスターの川上明子さんに
「mina」の皆川明さんのことを教えてもらいました。
さっそく本を買って読んでました。
とても「有り方」のいい方ですね。
一度お会いしたいものです。

夜8時にLマガを訪ね
はじめてミーツ編集長の江さんにご挨拶。
5月号の「Common Bar SINGLES」掲載のお礼と
いろいろとご相談など。
とても緊張しました。

夜10時過ぎに「天人」で
ジョージハリウッドの康さんと打ち合わせ。
その後ほぼ終了していた「実験哲学カフェ」へ。

仕事場に戻り
11時40分に大仲マスターのシングルズへ。
「mina」と北欧の話などして
終電で帰りました。


2003/05/28(水)
アート・インキュベータ
今日は昼間にセミナーを聞きに関経連まで。
NBIAという、ビジネス・インキュベータおよびアントレプレナーの支援を目的とする国際組織の方のお話でした。

なんでも、アメリカ西海岸にあるサンノゼという町には、芸術家(舞踏家・音楽家など)をインキュベーションするアート・インキュベータがあるそうです。

文化支援というと企業メセナとか文化行政しかないと思ってましたが、ビジネスとしてアートを育てる、という方向があるんですね。
Mebic扇町も、今後そんな方向を探ってみようかと。

今夜のシンググズは小夜子さんの「ご飯バー」。
いつもながら超満員でした。
色々と美味しく頂きました。


2003/05/26(月)
グッドデザイン博なのに
昨日の朝、車を動かそうとすると
エンジンがかからなくなっていました。
とうとう来たか、という感じです。

1年前に始まったオイル漏れ
そしてエアコンのコンプレッサーが壊れ
最近は「engine check」という警告が
消えなくなっていました。
クルマというものは
ゆるやかに衰退していくものなんですね。

毎回「グッドデザイン博覧会」には
クルマで大量の雑貨を持ち込んでいるのですが
今回は登山用リュックと手提げカバンに
入るだけのものを持って行きました。

今回のテーマは「ネットオークション」。
参加者は15名くらいでしたが
会話的にはとても充実しました。
オークションで雑貨を競り落とす話から
クルマをオークションで売った話
カッティングシートで何が出来るかという話
8月にMebicで予定している
ファブリックイベントのネタ出し
関西の演劇と批評の話
いたみホールでの企画の話、などなど。

Lマガのヨシナガさんには
実質的にマスターをしていただき
杏仁豆腐をふるまっていただきました。
(すっかり恒例となりました)

ちなみに「グッドデザイン博」は
そろそろ助走段階から
離陸に向かおうかと考えてます。

5月中には「オンライングッドデザイン博」を立ち上げ 
6月からは会場をMebicに移す予定です。


2003/05/25(日)
コラボレーション日記
研究活動や創作活動で、複数の人間が協同作業を行う際に、相互作用がうまく働いて、飛躍的な成果が生まれることがあります。このような協同作業を「コラボレーション」と呼びます。

どこかのサイトから引用してみました。

扇町インキュベーションプラザ(以降「Mebic」)での
僕の肩書きは「コラボレーションマネジャー」。
なかなか味わい深い肩書きです。

おそらく、さまざまなコラボレーションを引き起こすための
「触媒」みたいな役割を求められているのでしょう。
Talkin’Aboutが仕事になったようなものだと
勝手に解釈しております。

というわけで、最近は
イベントやセミナーをいろいろ企画したり
ひたすら人に会って情報を交換したりしています。

その過程で得た情報など
ここに書いてみようかと思っています。
もちろん、「SINGLES PROJECT」のことも。

では、はじまり。


今日は、昼から中央公会堂での「OSAKA DESIGNERS FORUM」へ。
大阪市主催なので半分仕事モード。
ミラノからデザイナーや雑誌編集者などを招聘し
ミラノで活躍する大阪のプロダクトデザイナー
喜多俊之氏が進行役を務めておられました。
1000人位は集まってました。

夜のパーティはリーガロイヤル大阪のロビー。
会費1万円はきつかったのですが
かなりいろんな人に会って充実しました。
Grafの服部さん・増地さん、infixの間宮さん
音響空間デザイナーの辻さん、バルニバービの佐藤さん
などなど、錚々たるメンバーとご挨拶。
NHK大阪の編成で「dig」という
関西で活躍している才能を紹介する企画をしておられる
宮田さん、佐々木さんとは長い間しゃべり
今後いろいろと連動していきましょう、と。

その後はシングルズへ。
coxcombの吉本さん、平松さんの日でした。
気に入ったポストカードを3枚買って帰りました。
(ちなみに昨日の橋詰さんの日は
11時40分頃に覗いてみるとすでに閉店していました・・・)



2003/05/24(土)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(10)
2002年12月末にコロキューム(映画館)
スーベニール(雑貨店)が閉館。
2003年1月から3月にかけては
フォーラム(小劇場)を中心に
クロージングイベントを行った。

最後に東京から来ていただいた「猫のホテル」
OMS戯曲賞作家の劇団
「ugly duckling」「PM/飛ぶ教室」の公演
OMS戯曲賞ドラマリーディング
OMSに18年間稽古場を構えてきた
「南河内万歳一座」「劇団☆新感線」の公演
「TIP COLLECTION」
「扇町カルチャーセンター!」
そして最後3日間のファイナルイベント
「LOVE! LOVE! OMS!」

18年間、多くの方に親しまれ
そして多くの方に惜しまれてフィナーレを迎えたOMS。
最後にとてもいい形で終わることができたことに
とても感謝しています。


さて、長々と日記そっちのけで
OMSでの思い出など振り返ってきましたが
「LOVE! LOVE! OMS!」最後の
「4時間でOMS18年間を飲みしゃべる」での
最後のあいさつで締めくくりたいと思います。
(明日からはちゃんと日記書きます。)


表現する人たちばかりでなく
僕らもOMSで育ちました。
僕らがOMSから学んだ大事なこと
それは、思いついたらとりあえず形にすること
この期におよんで僕らはまだ
次に何をやったら面白いだろう
そんなことを考えています。

OMSがなくなっても
僕らは考えること
そして何かを作ることを
止めたりはしません。
今回のクロージングイベントは
僕らにとってはオープニングです。
またきっと、何か変なものを作り出すでしょうが
その時はよろしくおつき合いください。


2003/05/23(金)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(9)
OMSは、「扇町アクト・トライアル」といった企画を通じて
また、日常的には劇団公演を受け入れる形で
演劇にかかわる若い才能を応援し、世に紹介してきた。

劇団と一緒に新聞社・雑誌社をまわって
記事に取り上げていただくようお願いしたり
制作面でのさまざまなフォローをしたりして
彼らの演劇活動をバックアップしてきた。

良質の表現を作る劇団は
OMSでの公演を通じて動員を増やしていく。
しかし、それ以降その劇団が関西に留まりつつ
経済的に安定した状態で演劇を続けていける状況を
作れたかというと、そんなことはなかった。

演劇は、実演芸術である以上
一度お客さんに見せるためには一度上演しないといけない
また一本の芝居を作るために
最低1ヶ月の稽古期間が必要になる。
ロングランシステムを導入し
ヒットした芝居は長期に上演される仕組みを作らない限り
演劇だけで食べていくことはかなり難しい。

東京であれば、テレビや映画やCMといった
メディアの仕事があり、その仕事で生計を立てつつ
演劇活動を続けていくという選択がありえるが
関西にはメディアの仕事が東京の何分の一しかなく
そのギャラも東京に比べてかなり低い。

表現者が関西にいて表現を続けられる環境を作らない限り
劇場でいくら頑張っても、才能は東京に出て行ってしまう。
または最初から「演劇」という選択肢を選ばなくなってしまう。
OMSの仕事をしながら、そのことに対する無力感を感じていた。

そんな折に、経済局が扇町に新しく作る
「扇町インキュベーションプラザ」運営の話をいただいた。
WEB・システム・デザインや映像など
「クリエイティブ」と呼ばれるジャンルの
クリエイター・プロデューサーを育成するための施設。

もしかしたら、直接の演劇活動のバックアップではなく
表現者にとっての「副業」をつくる、という形での支援なら
この仕事を通じて出来るんじゃないか
そう思って、お受けすることにした。


2003/05/20(火)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(8)
「民業圧迫」ということばがある。
金融機関や学校や住宅など、民間でも
経済的に成立する分野に行政が進出し
税金がかからない、予算化されれば赤字でも
構わないという条件のもと
民間よりも安くサービスを提供し
民間のビジネスを圧迫する場合に使われる。

大きなレベルの話でなくても
国民宿舎が民間ホテルの経営を圧迫したり
行政が作ったスタジオの使用料があまりにも安く
民間のスタジオがつぶれたり、ということが
実際にしばしば起こる。

劇場の場合はちょっと事情がややこしい。

東京・下北沢で5つの劇場を経営する本多一夫氏は
不動産で得た収益の一部を劇場の運営にあてて維持している。
高い税金を払って劇場を維持しているそのすぐそばで
公立の立派な劇場が潤沢に税金を使って
運営されていることを苦々しく思っておられる。

劇場というものはほとんど経済的に成立しないため
基本的には行政が劇場を作ることは歓迎される。
ただ、儲からないことを覚悟で劇場を作った人達にとっては
公共の劇場は、ポールポジションから走り始める競争相手になる。

旗揚げして間もない劇団が公演を行なうための場所
無駄打ちも含めて自分たちの表現性を試す場所
こうしたハコの重要性には疑いを入れない。
しかし、それを何とかするために民間で頑張ることは
もしかしてとても危険なことなんじゃないか
本多氏の話を聞いてそう思った。


2003/05/17(土)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(7)
 一方、文化施設を取り巻く環境の方はこの10年の間にずいぶん変化してきている。
 特に最近の傾向として、多くの芸術ジャンルにおいて、鑑賞者人口は減少してきている一方で、自ら表現を行う人の数が増えてきている。

 「劇場」という場所は、基本的に情報の「発信者」としての表現者と「受信者」としての観客によって成立しているが、観客は今や受信者としての立場にとどまるだけでなく、自ら舞台に立つことによって発信する側にまわっていく。

 ここにあるのは舞台上の「特権的な表現者」と「受け手としての観客」という構図ではなく、表現者も観客も同じ目線の場所にいる「フロア」の構図なのではないだろうか。

 そして、「フロアの時代」における表現欲求を満たす場、というものは、これまで考えられてきた表現の場とは少し違う形をしているのではないだろうか。

 南船場・堀江や中崎町に増えてきているカフェや雑貨店は、実はさまざまな表現の発表の場として機能している。
 カフェギャラリーとしてイラストや写真の展示、ライブや演劇などのカフェイベント、委託販売という形で店頭に並ぶ手作り雑貨・・・30人から50人が入れる程度のこじんまりしたアートスペースが、自然発生的に、また経済的にそんなに無理のない形でどんどん生まれてきている。
 こうした店が、サロンとして、表現のための場として、メディアとして果たしている役割は小さくない。
 そしてまた、こうしたお店やアートスペースを運営すること自体が一つの表現となってきている。

 これらのカフェや雑貨店は実は「劇場」なのではないか。
 そんなことをある時から考えはじめた。


※ちなみに「フロアの時代」という言い回しは、暗黒番長樋口ヒロユキ氏の発明です。


2003/05/17(土)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(6)
閉館発表の前後、何軒かの不動産屋を回った。
「劇場」になり得る倉庫物件を探すのが目的だった。
使えそうな物件に目をつけて、オーナーを探し当て、直接アプローチしたりしてみた。

その時に考えていたのは、「Common Bar SINGLES」のように、みんなで一つの劇場空間を支える、というものだった。
30坪から40坪の物件を、普段は昼間カフェ・夜はバーとして日替わりのマスターで回し、月に1回だけ演劇公演をする、というスキーム。
劇場経営ではなく飲食営業で収支バランスを合わせることにより、経済的に自立して劇場を運営すること。
そして月に一度の「お祭り」として公演を行うことにより、その空間の運営にかかわるさまざまな立場の人々を呼び込むことができる、本当の意味で「パブリック」な劇場を作ること。
そんなことを考えていた。

このアイデアは、具体的な物件に乏しかったこと(大阪・キタの中心部には倉庫物件はあまりない)、あっても交渉が思うように進まなかったこと、保証金や改修費用などの初期費用を個人からの出資で調達するメドが立たなかったことなどによって、残念ながらいまだに陽の目を見ることはない。

しかし、劇場が本当に「パブリック」なものであれば、企業や行政に頼らなくても「みんな」でそれを支える仕組みを作れるんじゃないか、という思いは今でも強く持っている。


2003/05/11(日)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(5)
 2000年あたりから、OMSの継続に翳りが見えはじめていた。
 それはまず、これまで「企業メセナ」として容認されてきた赤字予算の見直しという形で始まった。
 主催公演から貸館公演へのシフト、広告の中止、OMSプロデュースの中止・・・
 値打ちがあっても金のかかる事業は、もはや不可能になっていた。

 そうした状況の中、「扇町Talkin’About」はほとんど費用のかからない事業として、「TIP COLLECTION」は平日の空き日を埋め、収入を増やす事業として、それぞれ企画を通した。
 新機軸を打ち出すことによって更なる社会的評価を得られれば、状況を好転させることができると信じていた。
 が、そうはいかなかった。

 建物・設備の老朽化が進み、現状維持のためにも多大な投資が必要になった時点で、建物の再開発が決まった。
 当然、再開発される建物の中に新たなOMSを作ることを提案した。が、それがすんなり通る状況ではなかった。
 文化を支えるというスタンスを明確にし、対外的にアピールすることが、長い目で見ると企業の利益につながると説明したが、短期的な収益改善を求める論理を超えることはできなかった。

 閉館が発表されたのが2002年3月11日。
 翌日以降「OMS閉館」は新聞・テレビ・雑誌に大々的に取り上げられた。


2003/05/08(木)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(4)
 オープン当初は小劇場・ミニシアター・雑貨店・カフェはいずれも大阪にそれほど多くなく、それぞれが独自の存在感を発揮していた。
 しかしながら、80年代後半から90年代にかけて公共・民間の劇場が増え、ミニシアターも90年代後半には配給会社による直営館が大阪に相次いでオープンし、同時期に雑貨店・カフェもあちこちに出来てきた。必然的に、個々の施設のインパクトは相対的に低下していった。

 僕がマネジャーになったのはそんな時期だった。

 そうした状況の変化の中、若者文化の発信基地として何をなすべきか。そこにあったのは「複合文化施設としてのOMS」の存在感の発揮であった。

 演劇・ダンス・お笑い・映像・音楽など異なるジャンルの気鋭のクリエイターを一堂に集めてショーケースを行う複合ジャンル企画『TIP COLLECTION』(’00〜)。
 新しくフォーラム担当となった吉田和睦氏が立ち上げたこの企画は、さまざまなジャンルに関心を持つ表現者や観客にとって魅力的な場所をめざす試みであった。

 扇町界隈にあるカフェ、バーなど10ヵ所を会場としたサロン企画『扇町Talkin’About』(’00〜)。
 演劇・映画・音楽・美術・文学・哲学・お笑い・サブカルチャーなどさまざまなジャンルのサロンを開催することにより、参加者がジャンルの壁を超えていく状況を創り出そうと試みていた。

 そして『扇町Talkin’About』の延長線上に生まれたプロジェクト『Common Bar SINGLES』(’01〜)。
 閉店した1軒のバーを役者、アーティスト、小説家、写真家、イラストレーター、ライター、プロデューサーなど芸術にかかわるさまざまな立場のマスターが日替わりで店に入り、バー空間を維持しつつさまざまな表現を行うことにより、ジャンルのクロスオーバーが自然と起こっていった。

 複合文化施設だからできるこうした「文化複合」の実験により、これまでにない情報発信を行い、文化施設の新たな雛型を提示し続けること、それこそがOMSのアイデンティティであった。


2003/05/07(水)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(3)
 フォーラム担当になってからは、週末になると京阪神のあちらこちらの小劇場に行き、見所のある劇団を探して回った。
 実はこの仕事に携わるまではそれほど芝居を見てこなかったが、この頃には年間に150〜200本の芝居を見るようになり、その中で自分なりの批評眼を培っていった。
 またOMS戯曲賞、扇町アクト・トライアル、OMSプロデュースなどの企画を通じて、多くの才能ある演劇人たち出会うことができた。

 その一方で、OMSは「若者文化の発信基地」として何ができるか、ということをいつも考えていた。
 「小劇場のメッカ」としての評価がすでに定まった場所。しかしながら、演劇に関心のない人たちにとって、OMSは魅力ある場所になっているだろうか?
 フォーラムでの企画においては、小劇場演劇の拠点として何ができるか、ということと、演劇以外の文化ジャンルに関心がある人をどう引き入れるか、の両方を意識していた。99年のOMS15周年では「みうらじゅん大物産展」と「トーキョーNEOアチャラカ大行進」(東京で「笑い」にこだわった表現を行う劇団のシリーズ公演)の2つの企画を行ったが、これは「笑い」という切り口で「演劇以外」と「演劇」をどうつなげるか、という実験でもあった。

 劇場という場にジャンルのクロスオーバーする状況を創り出すこと、そのことが「複合芸術」としての演劇にもいい結果をもたらすに違いない、そう考えていた。

 99年10月にはマネジャーとなり、OMS全体を統括するポジションに就いた。
 このことは僕にとっては、現場のプロデュース業務を卒業するということであり、OMSの歴史を継承しつつ、そこから先の、まだレールの敷かれていない場所に走り出していくということでもあった。


2003/05/02(金)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(2)
 社内公募がかかり、応募し、合格して文化施設の仕事に就いたのは25歳の時。最初の勤務地は憧れ続けたOMSではなく、神戸・新開地に新しくできた「神戸アートビレッジセンター(KAVC)」だった。
 民間ではなく公立の文化施設。オープンしてから3ヶ月経った頃で、さまざまな試行錯誤を重ねながら「若手芸術家の育成」と「まちの活性化」にむけて、スタッフが思いを一つにして頑張っている、そんな印象の場所だった。
 実際に仕事として、演劇や映像や美術などの表現に携わっている人たちと接するようになり、これまで頑張ってきたとはいえ文化的コンテクストの少なさを痛感する日々を送った。およそ普通の人とは思えないハイパーな表現者たちに圧倒されながら、何ヶ月もかけて自分の居場所を見つけていった。

 KAVCでは、演劇よりも現代美術に近い場所にいた。その頃美術が一番手薄だった、というだけの理由だったが、この、演劇以外のジャンルから入ったという経験がその後のものの考え方に大きく影響を与えたように思う。

 OMSに異動したのは97年12月。第3回OMSプロデュース「夏休み」のテント公演直前だった。フォーラム(劇場)担当としての最初の仕事は、粗大ゴミの収集日にゴミ捨て場を回り、舞台の大道具・小道具に使える廃材や家電を拾ってくる仕事だった。
 新梅田シティの空中庭園の下に仮設テントを設営しての公演。正月開け早々の寒空の下、観客の誘導や本番中の警備などをやっていた。あまりに寒くて公演中にはテントの周囲を走り回っていた。


2003/05/01(木)
扇町ミュージアムスクエア(OMS)のこと(1)
 大阪駅から今の職場である扇町インキュベーションプラザに行く途中、毎日OMSの前を通ります。
 4月29日にはぴあも完全に堂島に移り、今や幽霊ビルのようになってしまいましたが、しばらく建物は残るようです。
 悲しいとか淋しいとかいうところから何度も屈折したところにある静かな感情で、毎日その横を通り過ぎています。

 今日から何回かで、扇町ミュージアムスクエアのことを振り返ってみようかと思います。それが済んだら、やっと日記の体裁で書き始めようかと思います。

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 「大阪にニューヨークのソーホーが出現した」「大阪ガスが、何だかよくわからない面白い施設を作った」1985年にOMSがオープンしたときの評判だそうです。

 大学4年の夏過ぎから、週末は東京・上野の歩行者天国で黒人のダンサー達と一緒に踊るようになった。彼らは路上でのパフォーマンスやディスコの営業などで食いつないでいた。路上で仲良くなり、ラインダンスのメンバーの一人に入れてもらい、投げ銭の分け前をもらっていた。

 路上に座り込み、行き交う人々を下から眺めていた時期。ヒップホップやレゲエのルーツが気になりだしたのもこの時期だった。

 ダンサー達は自分たちの来歴を語りたがらなかったが、ニューヨークでも路上で踊っていたことは懐かしそうに話していた。
 夕方5時頃になるとパトカーがやってきて、歩行者天国の終わりを告げる。時にはパフォーマンスの最中に警官に退去させられることもある。邪魔者として追い立てられる存在、なぜか自分にとってしっくりといく場所だった。

 邪魔者扱いされても、ストリートから勝手に生まれてくる文化。そんなしたたかさを持ったものに少しでも近い場所にいて、いつまでもそれを見続けていたい、そう思うようになっていた。

 OMSという場所は、そんな自分の思いにぴったりと合う場所だった。


2003/04/27(日)
Common Bar SINGLESのこと(2)
 僕を含めた常連メンバーは最初「みんなでお客さんを集めるから」と、毎晩のように人を誘っては飲みに行き、10席のカウンターを埋めていきました。「シングルズつぶすな会」と何かのチラシの裏に書き、みんなで署名しました。「これだけお客さんが来れば大丈夫でしょう。さあ続けましょう。」キムさんはみんなに励まされ、揺れていました。もう一度頑張ろうかと考えたこともあったようでしたが、最終的に決心は変わりませんでした。

 「経済的な問題だけじゃなくて・・・」ほとんど儲からないのに、氷やら食材やらを持って毎日階段を登ることが、やりたいことがいろいろあるのにお店に縛りつけられて動けないことが、精神的にしんどい、そんな話をキムさんから聞きました。

 僕ら常連メンバーとキムさんは確かにこのお店で『いい感じの空間』を共有していたけれども、その空間を維持するための負担の大きさは、カウンターの内側と外側でずいぶんと違う、ということに、僕はその時になって初めて気付きました。
 それからは、今までのように無邪気に「続けましょうよ」とは言えなくなりました。

 このお店を残してほしい、というお客さんはかなり多く、そのメンバー全員が交替でカウンターに立てば空間の維持はできるんじゃないか、というアイデアはすぐに生まれました。
 そしてキムさんに話して、「つぶすな会」の第二弾として「週替わりマスターになりたい人」募集をはじめました。
 何人かが書いてくれて、あと何人かが外部から集まれば実現するんじゃないか、という雰囲気になってきたものの、仕入れの問題などをクリアすることができず、時間切れのような形で『Bar SINGLES』は2001年2月23日に閉店しました。

 その後、オーディオや電話やグラスや食器やその他こまごまとしたものをキムさんから引き継ぎ、不動産屋と交渉を続けつつマスター候補を募りました。  
 仕入とお店の管理の仕事をシングルズから歩いて2分のところにある『楽園食堂』のますかわあゆみさんが引き受けて下さることになり、マスター候補が30名を超え、『日替わりマスター制』でも回る、ということに気付いた時点で、お店を再生させることを決心しました。

 4月にマスター候補者を集めてのミーティングを重ね、ゴールデンウィークにはお店に入って準備と実習を何度か行い、5月6日、『Common Bar SINGLES』はオープンしました。

 オープンしてそろそろ2年、登録マスターはそろそろ100名を超えようとしています。
 今ではこのお店を通じていろんな人たちがつながり、新しいうねりのようなものを起こしはじめています。


2003/04/27(日)
Common Bar SINGLESのこと(1)
 僕が『Bar SINGLES』に初めて足を運んだのは2000年の7月。
 その年の4月から『扇町Talkin’About』というサロン企画を扇町ミュージアムスクエア界隈のバーやカフェで始めており、その会場に使わせてもらえるかと覗いてみたのがきっかけでした。

 お店にいたのは2代目店主、キムラキムさん。その時かかっていたのが『フィッシュマンズ』で、『空中キャンプ』『宇宙・日本・世田谷』好きの僕は一瞬のうちにキムさんと意気投合していました。
 お店では毎月15日(フィッシュマンズのボーカル、佐藤伸治氏の命日)に “Fishman’s Affair”という、フィッシュマンズの曲ばかり大音量でかけるイベントをやっていましたが、そのイベントを8月から毎月Talkin’About企画として行うことにその場で決まり、その後は月に何度かお店に顔を出す常連になっていました。

 キムさんの企画で『扇町キャンプ』という、扇町公園に好きな音源と食べ物を持ち寄ってお酒を夜まで飲んでいる、というイベントがあり、12月23日の回にはやはりTalkin’About企画として開催してみましたが、既にかなり寒い季節、しかもなぜか雷雨に見舞われるというトラブルの中、午後2時から深夜にいたるまでユルユルと何十人かで飲んでいました。


 『Bar SINGLES』をつうじて、いろんな人たちがつながっていました。
 いい音楽を愛する人たちが、そんなにシャキシャキはしないけれどもゆるやかにつながっていくことで何か世の中を変えていくことができるような、そんな雰囲気がキムさんの作っているお店にはありました。

 だから、その年の暮れにキムさんが、「お店をやめる」と言ったとき、耳を疑いました。


2003/04/26(土)
Talkin'Aboutのこと(3)
 扇町Talkin'Aboutを始めるにあたって、いくつかのことを考えていました。

●「何人集まったか」を気にしない、ということ。
 この企画を「3人でやるイベント」とか「反イベント」とか名付けたこともある。
 集まった人の数よりも、そこでどんな出会いが起こり、どんな情報が交換され、参加者がどんな刺激を受けたのか、そのことを問題にしたいと思っていた(とはいえ3人しか集まらず寂しい思いをしたこともある。それ以上に、お店のマスターと自分だけしかおらず「これも1回に数えましょう」としたことも何度かあった)。

●「経済」ができるだけ絡まないシステムにしておく、ということ。
 参加者から参加料を取らず、主宰者にギャランティを支払うこともない。会場となっているお店には各自で飲み食いした分の代金だけを支払って帰る。かかるのはチラシ代だけ。そうしておくことが、このシステムを一番長持ちさせることになると考えていた。

●さまざまなジャンルのサロンを作る、ということ。
 ともすれば個人の嗜好、関心は細分化されたジャンルに閉じていく時代の流れに抗って、ジャンルの垣根を取り払うこと、風通しのいい状態を作っていろんな情報が流れやすくすることを心がけていた。

●情報の発信と受信のための場、ということ。
 劇場という場所にベースとしてあるのは、「発信者」としての表現者と「受信者」としての観客、という構図である。
 観客が「発信者」にもなれる場所を作ること、そしてふだんは発信者である表現者が「受信」することによって、自らの引出しを増やすことができる場所を作ること、それが劇場に必要な機能だと思っていた。

●地域とどうつながるか、ということ。
 「情報発信基地」として扇町にあるときに、OMSが点としてあることを超えて地域とつながっていけるか?単発のイベントをするだけでなく、継続する有機的な関係性がまちと築けるか?

●見ず知らずの人としゃべることに慣れてもらう、ということ
 内輪なコミュニケーションにどっぷり浸かっていて、見ず知らずの人としゃべる経験の少ない日本人がこんなサロンに集まるのか、と心配もずいぶんしたが、逆にそういう経験のできる場所をつくることに意味がある、と考えてみた。

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2000年の4月にスタートして3年。今年の5月には通算500回を迎えるこのサロン。
相変わらず5人から10人でやっていることが多いのですが、OMSがなくなっても続いていることにとりあえず感謝しています。


2003/04/26(土)
扇町Talkin'Aboutのこと(2)
 新宿歌舞伎町に「LOFT PLUS ONE」という、トークイベント専門のライブハウスが新宿御苑から移ってきたのは98年の夏。そこでは「一日店長」と称する主宰者が、さまざまなジャンルのトークライブを繰り広げて注目を集めていた。
 テーマはサブカル、音楽、犯罪、左翼思想、アイドル、SMなど、かなり地下的な雰囲気のものが多く、テーマによっては公安がマークしているという噂もあり、新宿的ないかがわしさを湛えた知る人ぞ知る存在となっていた。
 入場料は無料、ドリンクとお通し1000円程度だけでさまざまなジャンルの話が聞ける場、ということで、地下2Fにあるそこそこの広さのスペースに数十人から百人を超える人が集まっていた。有名人や情報通の話を聞き、時に議論に参加することもできる、というのは大きな魅力だった。

 この企画に大いに刺激を受け、98年の秋から、OMSの一階にあったカフェレストラン「スタッフ」でトークライブ企画を始めた。鬼畜大宴会の熊切和嘉監督、当時遊気舎の後藤ひろひと氏、「キュピキュピ」の石橋義正監督、ミルクマン斉藤氏、南河内万歳一座の内藤裕敬氏、リリパットアーミーのわかぎゑふ氏らに月1回のペースで主に趣味についてのトークをしていただいた。翌年4月からは外部の有志メンバーと一緒に「扇町TALKIN’HEADS」という企画グループを立ち上げ、トークライブ企画を続けていった。

 トークライブ企画と並行して、参加者自身がしゃべるサロン企画を提案したのが99年の秋頃だった。イメージとしてあったのは「哲学カフェ」。「スタッフ」の中にある20人掛けのテーブルでやってみよう、と持ち掛けた。
 イベントの形でお客さんから入場料を頂き、有名な人が壇上で喋り、お客さんは話を聞くだけ、そして出演者にはギャランティを支払う。こうしたシステムを回し続けるためには、毎回数十人のお客さんを呼び続けることが必要になる。また企画書の作成やマスコミへの送付、チラシの作成および街まき、進行表の作成、当日の司会進行、PA、映像のオペレーション、ビデオでの記録など、イベントを継続していくにはかなりの労力がかかる。
 そうしたイベントを行う際に必要となる作業一切を省き、かつ経済が極力からまない仕組みを作ろう、というのがサロン企画の趣旨だった。テーマは何でもOK、いわば「雑学カフェ」としてスタートしたのが「扇町Talkin'About」であった。

 当初この企画は「スタッフ」で毎日のようにトークサロンが開かれている、という形をめざして始めたものであったが、OMS近くの1軒のバーに行ったときに「この界隈には個人でやっている、小さいけれど面白いバーがいくつもある。OMSと連携して何かやれんか?」と言われたのをきっかけに、扇町界隈のカフェ・バー・居酒屋・ギャラリーなど10ヶ所を会場として広げていくことになった。

 最初のうちは、僕自身がいろいろ本を読んで調べた情報について喋ったり、僕より詳しい人に来てもらって話を聞いたり、という形で始めた。「沖縄」「ワンダーフォーゲル」「アメリカ文学」「ビートニク」「アジア旅行」「批評」「60年代」「サブカルチャー」・・・
 僕自身がやりたいと思っていた企画から始まったが、その後「自主映画」についてはインディーズ・プラネットの河野氏に、「ピンク映画入門」は「ぴんくりんく」というフリーペーパーを作っていた太田氏に、「ポエトリーリーディング」は「大阪式詩のボクシング」を主宰していた平居氏に、それぞれお願いした。それが何ヶ月か続けていくうちに、いろんな方々が自らサロンの主宰者として名乗りを挙げて下さった。上方文化評論家の福井氏、笑いのミニコミ誌を出していた太田氏、小説の同人誌を出していた安孫子氏、「大阪形而上学研究所」の中田氏・・・スタートしてから1年程で、僕が自分で企画を出さなくても月に十数本のサロンが行なわれている状況が生まれていった。


2003/04/25(金)
Talkin'Aboutのこと(1)
 フランスで『哲学カフェ』というものが開かれているそうですよ。
 アート関係のシンポジウム後の飲み会で、サウンドアーティストの藤本由紀夫さんからそんな話を聞いた。もう6年前のことだ。
 ちょうどその頃、大阪・中津に『セミネール』というサロンがあり、平日には写真・建築・現代美術などの講座を、週末には『ウィークエンド・セミネール』と題して一般向けのレクチャー企画を行っていた。藤本さんもその動きに関わっておられた。
 JR東海道線そばの古いビルの4階にそのサロンはあった。本棚にはアートや写真や建築関係の書籍が並んでおり、200円くらいでコーヒーが飲めた。かなりアカデミックな様子の、20代、30代の人たちが10人ほど集まっていて、知識的にはあまりついていけなかったが、雰囲気にはとても憧れた。いつか自分もサロンを開いてみたい、と思うようになった。

 フランス・パリでは92年から、マルク・ソーテという哲学者が『哲学カフェ』をはじめた。日曜の朝11時になると、バスチーユ広場の一角にある『カフェ・デ・ファール』で、哲学的な命題についての話し合いがはじまる。
 彼が主宰する『哲学カフェ』には200人近い人々が集まり、『哲学カフェ』という試み自体もフランス全土100ヶ所以上で開催されていたそうである。

 18世紀イギリスのコーヒー・ハウス、同時期フランスの王侯貴族のサロン、20世紀に入ってからもパリ、サンジェルマン・デ・プレの『ドゥ・マゴ』や『フロール』など、カフェで人々が出会い、議論し、そこから新しい文化が生まれてくる、そうしたサロンとして機能していたカフェがかつてはあった。日本でも60〜70年代の『新宿ゴールデン街』は映画・演劇・文学などにかかわった人たちが多く出入りし、そこでさまざまな繋がりや論争や大喧嘩を生み出してきた。

 そうした伝説はすでに過去のものになっていた。特に現代のように人と人が出会う強度がとても弱くなっている時代に、わざわざ知らない人に出会ってコミュニケートすることを欲している人がどれ程いるのか?
 90年代になってからのフランスで『哲学カフェ』が生まれたということは、その意味でとても新鮮だった。

 その後実際にフランスに行き、哲学カフェの現場に立ち会った。「Philosophy Café in English(英語での哲学カフェ)」という企画を「パリスコープ」で見つけて行ってみたのだが、古くからあるようなカフェの一角で、30人ほどが集まってきた。
 10代の学生から70代の老婦人までが入り交じり、「人生の目的とは何か?」といったテーマで話し合っていた。哲学の知識をもって議論をリードする人もいれば、自らの人生哲学を語る人もいて、2時間程の間、白熱した議論が展開されていた。

 ちょうどこの頃、仕事場が神戸アートビレッジセンターから扇町ミュージアムスクエア(OMS)に変わった。
 長らく憧れた職場は、「小劇場のメッカ」としてすっかり評価の定まった場所でもあった。
 そこにどんな今日的な意味を付加できるか?そんなプレッシャーの中で考えたのは、『哲学カフェ』のような、さまざまな立場の人たちが集まるサロンをつくる、ということだった。


2003/04/24(木)
RINO'S POINT
 今日は、昔入り浸ったバーのことなど書いてみます。
僕が今、何をやっているのかが多少でも分かっていただけるのでは、と。

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 10年前。
 会社に入って3ヶ月。大阪府高石市にある製造所の総務チームに配属になり、堺市上野芝にある会社の独身寮に引っ越すことになった。

 上野芝駅からすぐの所に古びた商店街があり、その一角にやけにサイケデリックな洋服屋があった。「文明的洋服屋 RINO'S POINT」。夕方5時頃から夜中の2時頃まで営業していたこの洋服屋の奥にはカウンターと4人掛けのテーブルが2つ、10数人で一杯になる位のバーがあった。

 上野芝に越して3日目にこの店に入ってみた。僕以外に3人の常連客がいた。店のマスターは最初に「自分、この漢字読めるか?」と。そんなコミュニケーションから始まった。
マスターはそのうち洋服屋の方に行ってしまったが、僕は会ったばかりの常連客と自然に喋っていた。気を使っているようには見えなかったが、客と客をつなぐ手立てを心得た感じだった。

 その後この店に週3回は通うことになった。
 ここでは、とにかくいろんなジャンルのことが話題にのぼった。
 スキー・ゴルフ・バイク・車・映画・音楽・バスフィッシング・登山・英語・陶芸・芸能関係・さまざまな職業について・・・
 これらすべての話題をリードしていたマスター圧倒された。見聞を広めることがカッコいい、という雰囲気の中、「お前、そんなことも知らんとダサイぞ」とハッパをかけられたことも少なからずあった。

 学生時代にインポートブランドの服を売り、ブレイクダンスに興じ、遊んでばかりいて何でも分かっている積りでいた僕に冷や水を浴びせかけるこの店は、その後僕にとっての「学校」になった。

 常連客や店のアルバイトの中にもいろんなことに詳しい人が多く、マスターがいない日でも店は刺激に満ちていた。特に芸大系の客が多く、インディーズな映画や音楽の話題には事欠かなかった。話題に追いつくため、追い立てられるようにして週に5本の映画、10枚のCDを借り、自分の引き出しを無理矢理増やしていった。


 会社に入社して1年程してから「扇町ミュージアムスクエア」の存在を知った。
 大阪ガスグループが運営していたその施設は、この店の常連客の間でもよく知られており、ある種の敬意を持って見られていた。
 いつかこんな場所で働けたら・・・製造所総務の仕事に追われ、夜と週末は文化的に英気を養う日々を過ごしながらそう思うようになっていた。

 一方で、いつまで経っても自分のはるか先を走っているマスターや他の常連客に対して、焦燥感と閉塞感を覚えた日々でもあった。


 そんな生活を続けること2年。社内での公募がかかった。「複合文化施設の企画・運営スタッフ」。
 どうにか選ばれ、神戸アートビレッジセンターで働くことになった。

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 このバーに通っていなければ、たぶん文化とはあまり関係のない人生を送っていたのでしょう。
 このバーは昨年、商店街の再開発にかかり閉店。今は堺市深井で、洋服屋だけになって営業しています。


2003/04/23(水)
Good Day, Good Life.
 今日は9時まで仕事をした後、Talkin'About「AHAHA扇町笑いのカフェ」に顔を出し、それからシングルズの「ご飯バー」に寄ってみました。

 「笑いのカフェ」には5名(僕は入れずに)の方が来られ、お笑いやテレビの話をしておられました。
 その後ご飯でも食べて帰ろうかとシングルズに寄りましたが、小夜子さんがマスターになって1周年の記念の日で、マスター有志で花束を贈ったり、お店の暖簾を手作りで作ってプレゼントしたりと、すっかりシングルズイベントになってました。
 お客さんもお店に入りきらず、10人以上は廊下にはみ出して飲んでました。面白かったので僕もつい終電まで飲んでしまいました。
 
 今日はマスターだけで20人近くがお店に顔を出していたでしょうか。みんながこの状況を面白がって飲んでいるのがとても不思議でもあり、有り難くも思いました。


2003/04/20(日)
はじめに
 みなさま、はじめまして、山納洋と申します。
 以後よろしくお付き合いください。

 「扇町Talkin'About」を扇町ミュージエムスクエア(OMS)の企画としてスタートして3年、その会場の1つだったバー「SINGLES」の閉店を機に、「Common Bar SINGLES」として運営し始めて2年。
 この3月で母体ともいえるOMSは閉館してしまいましたが、「扇町Talkin'About」と「Common Bar SINGLES」を軸に、いろんな動きが起こってきています。

 3月にこのサイトが立ち上がったのを機に、今起こっているさまざまな動きを「SINGLES PROJECT」と呼ぶことにしました。
 もともとのバー「SINGLES」の名前でもあり、自立した個人の集まりが、自分たちのやりたいことを無理しないでやる、という趣旨にも合うだろうと。

 今回サイトの立ち上げにあたり、WEB製作メンバーが僕の日記ページを作ってくれました。
 せっかくの機会なので、いろいろ考えていること、日々感じたことなど、書かせていただこうかと思っております。
 どうぞよろしくおつきあいください。


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